7月16日 忍ぶ恋と忍ばぬ恋。忍ぶことは別に美学ではなく実は実学かもしれない。
情けは人の為ならず。
よく間違われる、ということは9999回ほど聞く言葉だが、わかりやすく補足するなら、
情けは人の為ならず、自分のためになすものである。
ということであろう。
結局回りまわって、”自分の得”になるよ、という実利主義のことばなのだ。
だが”マシュマロ実験”のように、余裕がないと目の前のマシュマロはガマンできない。
因みに私は”マシュマロがある”という認識を脳がする以前に、口の中に向けてマシュマロが手から発射されているパターンだ。
マシュマロ実験で、”食べたスピードNO.1”になる自信がある(残念)。
マシュマロ実験で言われることは、嫌な言葉だがいわゆる”育ち”。
余裕ある被育成体験があるほど(つまりがっつかずともそのうちたべられまっせ、ということ。もっと言えばいつも”腹いっぱい”ということかもしれない)マシュマロが我慢できる。
よくある目の前の1万円と1年後の10500円でどちらを選ぶか、という奴だが、この事件そもそも比較者の預金額や手持ちの金の違いで、目の前は人間2人でももうそもそも条件が違うわけだ。
葉隠れ、とは武士のたしなみであるとか、武士道であるとかいわれるわけだが、要は結局にたような部分がある。
つまりは“渋い武士”になりたい、という欲求があり、それを満たすため、という目的があるわけだ。
その姿が節度ありいい、といわれるが、武士道武士の心には”渋武士になりたい”欲求があるわけで、欲求がない枯淡の境地であるわけではないだろう。
それは多分奥深くに注意深く隠蔽されてはいるだろうが、確実にあるはずだ。
武士道を追求する姿こそ、無欲節制という姿に見える。だがなにかを希求している。
やっているうちに忘れてしまう(ハビット化する)ということはあるだろう、だが発端には”なりたい自分”がある。
恋もそうだ。
”葉隠れ”には「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候」とある。
これを冒頭の“情けは人の為ならず”的誤読をするならば、
武士たるもの、恋などはすべきではないが、してしまう(恋は熱病あるいはDNA欲求)である以上忍ばねばならない。
となってしまうし、皆さん実はそう読んでいるのだろうが、
実は、“恋はそもそも我慢できるものではない。それを押し殺すことを敢えて行うことで、脳裏の恋情はより激しく燃え上がるものだ。その「燃え上がり」をわが身の薪として命を燃やせ”ということなのだろう。
むしろ一番発火量の多い薪として”秘めた恋”に甘んじることで、“激渋武士”への道が近づく、ということなのではないだろうか。渋い武士になる、というのは“美学”とも称されるナルシシズムだ。別にナルシシズムが悪いわけではないだろうが、自己愛というとどこか偏った印象が出てきてしまう。
まあ、武士とはほぼ男性限定の状況なので(女武者、というのはある気がするが)、これはあくまで武士階級男性(精神的なものも含め)への実学であろうが、
上記は四方田犬彦さんの”人・中年に至る”P.52にこう書かれている。
忍ぶ恋は、どこまでも告白されず、したがって周囲どころか、恋愛の相手にさえ知られないことを理想としている。そこでは恋情はかぎりなく無化され、逆にその無化を通して、公言され公認された恋愛とは比べものにならない強烈な情熱を携えられるようになる。これは逆理に他ならない。だが山本常朝は、もし世に恋愛というものが成立するとすれば、それはこの壮絶な逆理をみずから演じて生きることだと説いている。
強烈な情熱の携行。これは人生を生きる上で、あらまほしきこと、と言えるだろう。
(これは無理だな、高嶺の花だな、という思いから、敢えて”忍ぶ恋”戦略を取るケースも考えられますが、これは一級下のレベルになるでしょう。自己欺瞞も含まれていますし(傷つく自分とならないためというのが本当の目的)。可能性がある、なんなら相手の雰囲気から”有りだな”と感じているときに敢えて取るやせ我慢的忍ぶ恋、こそ最上級となるのでしょうねー)