10月18日 展示とか公募とか。
今朝の体重64.7kg?体脂肪11.1%?? もう記憶なし。。。
昨日は休暇を取って公募展に版画を持参。
電車代片道170円でみずから搬入できるのは本当にありがたい。
名古屋の時は代理搬入業者さんへの依頼、送付料、手数料で相当費用がかかっていたのだ。
まあ、地方在住で上京して持参するとなると、電車賃等で同じような費用が掛かるだろう。かえすがえすもありがたい。
(因みに帰りは作品がなく荷物が軽くなったので1時間ほどかけて歩いて帰った)
公募展へは4度目の応募となる。1度目はコロナで、応募者全員を展示するとのことだった。2回目は翌年で入選させていただいたが、3度目は落選であった。
ただ、落選でも無料招待券を頂いたので、展示を見に行ったのだが、皆さんのハイレベルな作品を見ていて、これはもっと精進せねばな、と思ったのだった。そして自作では及ばなかったことにも納得した。
だが一方で、「敷居が高いかな、私などが応募してええんかな」という気持も芽生えたのも事実である。だが落選作品を引き取りに行った際、会員の方(ある程度ご年配の)が、「私も10年は落選した」と慰めてくださったので、初学者(まあ、時間はだいぶたちましたが)で正式な教育を受けたことがない私であれば、もう少し頑張ってみようかな、と思って今回の応募となった。
応募完了後、たまたまXでフォローしている中島智さんのツイート(とはもういわないのかな)を読んで、大変助けになったので、その内容を引用してみる。
制作課題のキモというのは「良いもの」を出してもらうことではなく「自分にとっての10点/20点のもの」でも出していくということにある。これに慣れてくると「自分にとって100点のもの」という妄想が妄想だとわかってくる。むしろ存在しない妄想よりも「10点/20点」のほうがプラスだとわかってくる。
人はほっとくと「100点のもの」を出さなければと自縄自縛してしまい、それを「無欠のもの」として、仮想批判にたいする防衛で固めてしまう。それは手軽な防御壁であるところの理屈で固めた、それっぽさに陥ってしまう。そういった過ちは作品制作のみならず、あらゆる表現、生き方に沁みついていく。
学校という先生と生徒、という立場で美術を学んだことがないので、例えば出された課題を出す、という経験もない。作りたいものをただ作りたいように作っているだけである。なかなか客観的な評価を得られない面がある(もちろん工房にて先生方に指導頂くが、四六時中ではないし、そもそも課題はない)。
なので、こうした公募に出す、ということが数少ない課題提出に似た行為ではある。
だが、それはごくたまに、である。
なので、出すことになれないし、1年に1回、あるいは数年に1回、というレベルになっている(私の場合)。
その時に、「こんな生煮えの追求不足のものを出していいのか。申し訳ないのではないか」と思っているのだ。
もちろんいわゆる「画力がない」という問題もあるだろう。例えば美大に入るためにクロッキーを何十時間、何百時間行った、というような経験がないのだ。
他のものではない、いわゆる”お勉強”ではない”美”というものを追求するときには、普段とは違ったコンコロモチでやっていかないといけない、ということが、中島さんのツイートで伝わってきた。
この記事を書くため、中島さんのプロフィールをWIKIPEDIAで初めて閲覧したが、長いご経験をお持ちの美術関連の教育者であられた。
まあ、多分そうだと思ってはいたが、大変参考になる意見であった。
(こういう知見をお持ちのかたの意見が読める機会があると、SNSもなかなか捨てたものではないなあ、と思いますね。。)