8月17日 時間と空間の無限と、永遠のいまの瞬間のこと。
今朝の体重63.8kg、体脂肪11.2%。
やっと63キロ代に落ちてきたのだが、今日昼うどんと牡丹餅を食べたので、64キロ代に復活した感じ。。。
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人間精神を有限であるとするか、無限であるかとするかも、また、命題の問題にすぎない。たとえば、百数十億年前のビッグ・バンがこの物質宇宙の「始まり」であるとされ、その先を問うことは今はまだ許されていない。「物質」を超え得ない人間の認識は「有限」だ。しかし、それ以前は何かと否応なく問うてしまう、その問い自体が存在する限り、やはり精神は「無限」を志向しているといえるだろう。
池田晶子 P.44 最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論
”私”が通勤の道すがら、とりあえずは空を見上げれば、そこには無限がある。空気の層を超えて、その先の宇宙には、どう考えても”果て”はないのである。
果てはあれば、それは制限であり、その”果ての先はなんですか”となる。真空の空間以外のなにかがある、ということは、どう考えても思えない。そして真空以外のものが仮に”あるのだとしても”、それがあるということは無限ではない。
無限、とは”限界”が“ない”ことだ。
よくわからないが、空間というものには頭でわかるような限界はないだろう。考えの及ばない”存在状態”が宇宙である。
であれば、私もあなたも”無限”の一部でもあるのだ。
時間もそうだ。時間、という概念(人間が発明した考え方の仮の枠組み)にとらわれているのだが、当然ながら”過去”も”未来”もない。
永遠のなかの一瞬、そこでいう”永遠”とは分けることができない、この今の瞬間だけのことである。
限りのない世界で、限りのない永遠としての一瞬に”ある”。これが私であり、地球であり、星たちや塵たちの宇宙である。
過去や未来や時間はないにしろ、思考実験のしての”精神の間”はありうるだろう。いわば”存在”の中にあるこの”考え”や”魂”や”自”として仮にこの肉体の中にある”分けられたもの”=”自分”。
魂が本質的に、この体と”合わさってあるが別のもの”だとする考えである。
機械は電気がないと”別の状態になることはない”。電気とは、魂の似姿であろうか。
とまあ、どうどう巡りする疑問を頭の中に持つ状態こそが、”哲学”である、といえるのだろう。
けっして”高尚な考えを学ぶ”ことではない。そもそも学問でもない。いわば”姿勢”のことだ。
”魂”の傾向、ともいえるかもしれない。
日々の生活のなんだかんだ、納豆を買ったり、体重を測ったり、時計を買ったり((笑))。
そんな中でつい気を”紛らわせて”しまうのに慣れてしまうと、あっというまに”この生の終焉”に行きついている自分に気づくことだろう。
それがいけないのではない、それが普通なのだろう。
だが、
ちょっと池田晶子さんなどを読んでいると、
”果たしてそれでいいものか”という気持ちが、
ほら、
めばえるではないか。
ソクラテスは自身をアブ、ちくりと“刺す”アブになぞらえたと聞く。
チクリとさして“気づきを促す”のだ。
ソクラテスを文中でよみがえらせた池田さんもまた、別種のアブだとも言えるだろうか。
(池田さん、失礼しました!(笑))