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アニメ『響け!ユーフォニアム3』における演出上の違和感について語ってみた

2024春アニメにおいて、満を持して放送が開始された『響け!ユーフォニアム3』であるが、相も変わらず京都アニメーションによる圧巻の映像クオリティには毎回驚かされるばかりである。
自分もこの時を一日千秋の思いで待ちわびていたのだが、これまでとは一点異なる環境での視聴となっている。

今回の表題については、その一点に端を発するものとなっており、それはつまるところ、自分は「TVシリーズ3期の放送に先駆けて、原作小説を読了してしまっている」という点なのである。
世の中(というかオタク界隈)において、いわゆる「原作厨」という概念が存在するが、本作品についても残念ながらその視点が拭えないかもしれないというのが現在の心境である。

以下、自分がそのような心境に至ったとある場面について、僭越ながら解説をさせていただきたい。
なお本記事では、『響け!ユーフォニアム3』の原作小説のテキストについても適宜引用させていただいているが、アニメ3話で放送された範囲のみとなっているので、その点をご了承のうえ、ご覧いただければ幸いである。



ここで、議論の前提としてまず語っておきたいのは、京都アニメーション制作による『響け!ユーフォニアム』シリーズにおいては、原作小説のセリフや場面設定について「少々」という言葉には収まりきらないレベルのアレンジが加えられている場面が非常に多いということである。

なお、原作小説では、主人公の久美子を除く多数のキャラ(例えば麗奈や秀一)が京都弁で喋っており、アニメから入ったファンが原作を読んだ時に、最初に大いに驚くのは通過儀礼となっている。

まあ、それは今回の議題の本質ではないので余談に過ぎないのだが、以下、アニメにおいてセリフが改変されている一例を挙げてみる。

【アニメ】
「辞めたい子は辞めて部活から解放されるし、残った子はその子を気にせず演奏に集中できるようになる。むしろいいことなんじゃない?」
「たかが部活なんだし、無理してしがみつくものじゃないと思うし…」

【原作小説】

「でもね、たとえば部活を辞めた子がいたとして、その子はつらい気持ちから解放されるし、残った子たちはその子を気にしなくてすむし、win-winの関係になれると思わない?」
「たかが部活なんだし、無理してしがみつくものでもないでしょう?」

福岡の強豪校から転校してきた黒江真由による、なかなかに過激かつ若干場を凍りつかせたセリフであるが、原作小説に比べて、アニメでは言い回しがやんわりとマイルドになっていることがお分かりになると思う。
特に「win-winの関係」というストレートな表現は完全に跡形が無くなっており、この辺りは、石原監督もインタビューで「真由は、久美子のライバル的な存在になりますが、僕としては見ている人には真由のことを好きになってほしい」と語っていたように、真由に対する視聴者のヘイトが過剰にならないよう配慮した結果なのであろう。




さて、そしてここからが本題なのだが、自分が今回、特に原作小説とのギャップを感じた場面は、3話で久美子たちが1年生部員のサリーこと義井沙里の実家にお見舞いに行く一幕である。

以下、原作小説におけるテキストを一部引用する。

【原作小説】

腰をわずかに上げ、久美子は沙里との距離を詰める。〔中略〕かけるべき台詞、取るべき態度。それを考えたとき、手本として脳裏をよぎるのはやはりあすかの振る舞いだった。

「ありがとう、サリーちゃん。いままで頑張ってくれて。サリーちゃんのおかげで百三人、全員いるよ。一年生だって、まだ一人も抜けてない」

「久美子先輩……」

沙里の瞳が光でにじむ。刺さった、と久美子は心の中で確信した。
彼女が本当に欲しているものは、自身のこれまでの行動に対する報酬だ。彼女はきっと、感謝されたい。人知れず周囲を支えてきた自分の努力を、誰かに認めてもらいたい。

いかがだろうか。
アニメの演出では、純粋に「良い人」「優しい部長」として演出されていた久美子が、水面下では存外したたかな計算と思惑を抱えていたことに驚かれた人も多いのではないだろうか?
なお、この前後のセリフについてはアニメと原作小説でかなり異なっているので、あえての比較検討は行わないこととした。

そして、アニメにおけるこの会話の直後の沙里の反応であるが、原作小説どおり沙里は一瞬瞳を滲ませるものの、「でも、それが良いこととは…」と目を伏せ、その後も久美子による説得がしばらく続く。
なお、原作小説においては、上記に引用した会話をもって久美子による沙里の説得はほぼ完了しており、その後、本場面は以下のやり取りによって締め括られる(アニメでは割愛されている)。

【原作小説】

「サリーちゃんがいれば、北宇治はもっとよくなるよ」

「そ、それはちょっと褒めすぎだと思いますけど」

「褒めすぎじゃないよ。私の本心」

はっきりとそう言い切ったのは、躊躇した途端に沙里の心が離れていってしまうとわかっていたから。沙里の指先が震える。その両手で、彼女は自身の顔を覆った。ルームウェアからのぞく首筋が、ごくんと一度大きく動いた。

「ありがとうございます」

前へと傾いた頭を、久美子は軽く指でなでた。絹のような黒髪が、皮膚と皮膚のあいだを滑っていく。彼女はきっと大丈夫だろう。久美子にはその確信があった。

原作小説を読んでいると、所々で久美子の部長としての人たらしとも言うべき人心掌握術が存分に振るわれており、このようなしたたかさもまた彼女の大きな魅力となっていると自分は思っているのだが、アニメにおいては残念ながら久美子のそうした一面が十分に演出されているとは言い難いところである。

上記の場面にしても、原作小説においては(もちろん久美子の主観ではあるが)「沙里の本心と本当に欲していたもの」が明確に記されており、それを的確に捉えた久美子のしたたかさと有能さが存分に味わえる小気味良い場面であったのだが、アニメにおいてはこう言ってはなんだが、その後もなんとも的を射ない久美子のセリフが長々と続き、結局「忙しい中、わざわざお見舞いに来て真剣に話を聞いてくれた」という久美子の人柄の良さに沙里がほだされただけのように自分には感じられてしまった。

さらに、アニメにおける本場面の締めでは「私、あの人が部長でよかった」という原作小説には無いセリフをわざわざ沙里に言わせており、逆に言えば、そのようにハッキリと言わせないと沙里が久美子に対して感謝していることが十分に視聴者に伝わらないと制作陣が判断したともとれてしまう。


つまるところ、久美子による感謝の言葉に沙里が瞳を滲ませた場面につき、原作小説においては、それが本場面の骨子そのものであったのに対し、アニメにおいてはその後の会話劇の導入部分に過ぎず(その時点では沙里を完全には説得できていないため)、表面上のセリフは似ていたとしても、その内包する意味合いが全く異なってしまっていたのである。

これについて、もし自分が作者の立場であるなら、本場面の演出には大いに疑問を感じてしまうだろうし、一視聴者としてハッキリと原作小説の方が良かったと思えてしまったのが、本記事を執筆しようと思ったきっかけである。

ただ、ネット上の反応を多少なりとも窺ってみると、アニメにおいても、本場面における久美子の部長としての(したたかさはともかくとして)成長と有能さは十分伝わっていたようで、自分のかなり偏った見方である可能性は否定はできないのかもしれない。


結論として、京都アニメーション制作による『響け!ユーフォニアム』シリーズにおいては、(主にマイルド化の方向性による)制作陣の意図を存分に反映させた演出によって、原作小説からかなり思い切ったアレンジがなされており、自分にとっては多少なりともそれを残念に感じてしまう部分があるということである。
もちろん、原作小説とアニメという媒体の違いがある以上、全く同じ表現が成り立たないのは百も承知であるが、もう少し原作小説の尖った部分を活かして冒険してくれてもいいのになと個人的には感じてしまうのが現在の率直な心境である。


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