受験と私と勉強①
子育てネタではないのだが、
毎年この時期になると、
なんだかソワソワした感じが蘇るとともに、
自分の受験を思い出さずにはいられなくなる。
20年近く前、18歳の私は、
人生最大の失敗をしでかした。
センター試験だ。
私の失敗と言ったら数知れず、
ピアノコンクールで緊張のあまり弾き始めが分からなくなったり、
酔っ払って新横浜で新幹線を降りるつもりが名古屋まで行ったり、
会社携帯をタイの路面タクシーに置き忘れたり、
着陸後の飛行機で寝続けてCAさんに起こされたり...
とにかく恥ずかしい失敗は山ほどあるのだが、それとは比べ物にならない失敗である。
私はいわゆる、地方の進学校と言われる部類の高校に通っていた。
入学当初は、成績も上位だった。
「大志を抱け」という校風に乗って、医者になろうとしていたし、周りもみんな医者か弁護士か東大が目標という、今思うと凄まじい環境だった。
入学後程なくして、体育会系の部活に入った私は、かけがえのない仲間と一生の宝となる時間を過ごしたのだが、それと反比例して要領の悪い私の成績はガタガタと落ちていった。
それでも、まだ高3の秋までは、なんとか現役合格もワンチャンあるかもねというレベルだった。
しかし高3の12月になって、志望校を巡って担任と大揉めしたのだ。
浪人してでも行きたい大学があった私と、合格者数を稼ぎたい担任の間で、ガチのバトルとなったのだ。
私が志望していた大学は、学校長推薦が必要なため、担任の許可は必須なのだが、何日にも渡るバトルの末、私は負けた。
反対するなら先に言えよとキレた私に、
担任はこう言った。
「いや、最初から反対したら、やる気無くして受かる大学も受からなくなるだろ」
私は彼の合格率を上げるための駒でしかなかったのかもしれない。
急に目標を失った私は、しばらく全く勉強する気にはならなかった。
ボロボロのメンタルで受けたセンター試験は、
目も当てられない悲惨な結果となった。
当然医学部なんて受けられるわけもなく、
第4志望の理学部ですら無理だと思われた。
うちの高校が特殊なのだろうが、センター試験の結果を受けて、学年担任団と各教科担任が会議を開き、個人個人の出願高を決めるのが当時の慣わしだった。
私に関しては、現役合格者を増やすため、もはや理系大学ではなく、得意な国語や日本史をいかして文系を受験すべきという声が上がったというから、ドン引きだ。
そんな会議の中、私の進路に2人だけ異を唱えた先生がいたそうだ。
「あの子、化学苦手でトンチンカンなことばっかり言うくせに、実験だけはいつも楽しそうにニコニコしてるんだよなぁ。そういう学校探してあげたら、きっと楽しいんじゃないかなぁ。」
「医学部志望で小論文もトレーニングしてたから、センター比率低めで小論文の学校なら、まだまだ挽回できるし、私もサポートしますよ。」
そう言ったのは、化学の先生と生物の先生だった。
志望校を諦め、センターも失敗し、もはや考えていた全ての大学に入れそうになく、浪人する気力すらなかった廃人のような私は、とりあえずダメ元で前期試験は第4志望を受験し、後期試験は化学と生物のいわゆる理科の先生たちが血眼で探してくれた地方大学の生物学科を受けることになった。
前期試験はもちろん惨敗した。
3時間の数学の試験なんて、分からなすぎて1時間は暇だったくらいだ(笑)
合格発表を待つまでもなく、試合終了だった。
そうして前期試験が終わったその日から、化学と生物の先生が追い込みで小論文のトレーニングをしてくれた。
卒業式後も、後期試験前日まで先生たちは面倒を見てくれた。
「行っておいで。」と、彼らに背中を押され、電車をいくつも乗り継いで、3月半ばだというのに雪が深く積もる片田舎で、後期試験を受けた。
こうして私は北国の小さな大学に進学することになった。
誰一人知り合いのいない土地。
半ば半ギレでエイやと来てしまった。
私の高校からその大学に進学したのは、記録にある限り、医学部以外は私が第一号らしかった。
合格しても、高校の教師の半数は、おめでとうとは言ってくれなかった。
地方大学なんて、進学実績としては何の役にも立たないからだ。
だから、なんだか自分でもすごく不名誉なことに思えた。
18歳の価値観なんて、そんなものかもしれない。
4歳下の弟によると、私の受験ストーリーは、その後数年「勉強しないとこうなるぞ」と母校で語り継がれたという。
母校で語り継がれるなんて、ある意味名誉だ(笑)
あまり祝ってももらえず、不貞腐れてスタートした大学生活だが、予想外のことが起きた。
楽しくてたまらないのである。
それはいわゆる、キャンパスデビューとか言う類のものではなく、勉強が楽しいのだ。
受験のために教科書を開く生活とは違い、
興味があることを学ぶのは、とてもワクワクした。
私の大学は、実体験を重要視する校風だった。
風通しもよく、一年生だろうと教授室に「何やってるんですかー?」と遊びに行けたし、一年生から専門科目の講義が多く、とても恵まれた環境だった。
毎日が遊んでいるような、学んでいるような、
不思議な時間だった。
例えるなら、幼稚園の色水遊びのような感じだ。
色の組み合わせや水の感触で遊びながら学ぶような...
その感覚は、今も変わらない。
研究職とは名ばかりで、もしかしたら私は今も、
遊んでいるのかもしれない。
私のワクワクの芽に気付き、この大学を私のために探し当てた先生たちは、グッジョブなのだ。
もっとそんな教育者が増えたらいいのに。
そしてお気づきだろうか。
冒頭で、私はセンター試験を人生最大の失敗と書いたが、正確に言うと実はそうではないのだ。
人生を大きく変えはしたが、この失敗がなければ、私は勉強の楽しさも知らなかったし、きっと今の生活は手にできなかったのだから。
いや、そうは言っても、もしかしたらただの負け惜しみなのかもしれないぞ。
医学部に入学していたら、今頃高級車に乗っていたかも知れないし、毎日高級なヒールを履いていたかも知れないもの(笑)
選択しなかった方の人生を知る術はないのだが、
少なくとも「医者になってればよかったなぁ」と思ったのは、後にも先にも一度だけだ。
博士課程に進学するかどうか悩んだときだ。
でも長くなるから、その話はまた次回。