一度死んだから言えること156
◉震災から30年・・・未来はいま①
私は大学は卒業したものの、何の仕事をしてもハマらず転職ばかりで、田舎町で燻り続けていました。
そんな姿を見た親の願いで頑張ってサラリーマンも6年したけど、普通にブラック企業で月の残業は100〜200時間で最後には肝炎を患う始末でした。
そんな頃に友達が『開業する接骨院の補助的な仕事をしてくれないか?』と誘ってくれて、ようやくブラック企業から解放されました。
そうやって2年手伝っていたら『田舎で整体師になっても先は無い。お前も国家資格を得取って一旗上げるんだ!』と友達に唆されて、接骨院を追い出されました。
後で分かったのですが経営が順調になったので、そいつの母親に頼まれて自分の弟と私を入れ替える為でした。
追い詰められた私は必死で色んなツテを辿って、奇跡的に業界でも名の通った神戸の師匠の元へと辿り着いたのです。給料は当時として破格の10万円(笑)それが1994年の春の事でした。
そして何とか努力した結果、院長のコネで専門学校に入学できる算段となりました。この時点で35歳でしたかね。それが1994年の年末。
しかし、親からはその時点でもう支援するお金が無い『様々な所への謝礼や引越しや何やと300万円使ったので学費は無いよ。自分で何とかしてね』と言い渡されましたが、何とかなるやろというわけもわからない自信で、1995年の新年を迎えたのです。
そしてそこからが怒涛の試練の始まりです。そのスタートこそが阪神淡路大震災だったのです。
それを思い出すのは好きでは無いですが、今に至る人生の大きな岐路になった事は確かです。
震災の中で私はひたすら動いてました。仲間の安否を気遣い尋ねて、水や食料を配ったりしてました。
その後に院長から接骨院の分院の保全警備を任され、本院と分院を行ったり来たりしながら、どさくさに付き合い始めた彼女の家や、お風呂の世話になったその子友達のところなどへと、毎日バイクを走らせたのです。
幸い自宅は山手のボロアパートでしたが、なぜか大谷さんが鉄骨を入れて作っていたので壊れる事がなく、時折り様子を見に帰る程度でした。
この頃のことは書けば色んな話がありますが、今となっては『過ぎた事』だと私には思えています。身内も居ない神戸でアパートも潰れず、五体満足で入れたことは奇跡であり感謝しかありません。
身内が死んだ人たちは今も当時も変わらないとは思います。30年だろうが100年だろうが。だって何の手段もなく目の前で力及ばず家族が亡くなるなんて、今の私なら気が狂いそうですもん。
でも当時はそんな話は嫌と言うくらい聞きました。その事について私は何も言えませんし、言うつもりもありません。ただ私は生き残った理由をそこから探し始める事になったのは確かです。
逆に震災のお陰でと言うのも変ですが、被災者には無条件で当時の育英会からお金を借りる事が出来るようになり、授業料の問題は解決されたのです。
また震災の時の働きを院長に認めてもらい、給与を2万円上げてもらった事もあって、生活も少し楽になったのです。
そこから復興と学業と仕事が並行して行われ、本院では国の救済により怪我した人たちやストレスに悩まされた人たちは、医療関係に無料で通えたのです。
本院では1日に300人、分院では200人の患者さんが来院するようになり、治療業界ではカリスマ的な接骨院となりました。
この時代に鍛えられた事が今の技術へと繋がりますし、不安定な時代だったからこそ様々な技術が学べた貴重な時間でもありました。
続く
あなたと家族の周りの人が今日も健康であり幸せでありますように・・・。
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