看取ることも、送ることもできない別れ
(長文ですが、読んでいただけると嬉しいです)
連日、新型コロナに関する報道に触れ、私は時折、深い闇に落っこちそうにもなります。
家に男性がいないことが、こんなに心細いものかと泣きたくなることもしばしばです。
きっと、平気な人はいないと思います。
それでも、がん患者会という活動をしている立場としては、あまたある情報の中から見極めて、医療が守られていくことに出来ることをしたいです。
【対岸の火事ではない】
ニューヨークにあるがん専門病院が、新型コロナウィスル感染症の患者を受け入れるために、がん患者を退院させ、手術も無期限で延期となっているニュースが入ってきました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200408/k10012374561000.html
治療にあたっていた医療従事者が感染して亡くなることも起きていて、
恐れた医師、看護師の退職も出てきているとのことでした。
日本でも、新型コロナウィルスの治療にあたっていた医療者の感染が報道されました。
ニューヨークで起きていることは対岸の火事ではないのです。
検査の数とか、人工呼吸器の数を増やしても、医療者が倒れてしまったら、医療は届かなくなってしまう。
守るべきは医療者だと思っています。
【感染者のほとんどは濃厚接触者】
緊急事態宣言が出され、多くの方が自粛を頑張っていますが、それでも、安易に考えている人がいることということは、目にもするし、タイムラインに流れてくる投稿から感じることもあります。
専門家会議のメンバーである西浦先生は、Twitterに寄せられた不安にこたえるかたちで、『最近の感染者の多くは濃厚接触者がほとんどだ』と書いていました。飲み屋さん、会議、食事など対面で、または横に座って話している場合が多いそうです。
もちろん、誰も、罹りたくて罹っているわけではないし、誰にでも起きうることで、その人を責める気持ちはありませんが、緊急事態宣言が出されてもなお、安易な行動、移動をする人には、怒りをもたないといったら嘘になります。
防ぐことは不可能ではないと思うからです。
【想定外の別れ】
安易な行動をしたり、誰かの批判ばかりをするのは、自分が死ぬこと、自分の大切な人が成すすべもなく死んでいくことを想像できないからなのかなと思ったりしています。
昨年末、私は厚生労働省の【人生会議】のポスターに意見書を提出したことで、渦中に入る経験をしました。
私がとても気になっていたのは、『決めておけば、幸せな最期を迎えられる』という部分でした。
想定外のことが起こった時のパニックを繰り返し経験したので、決めていたことが通じない時に失敗したとか、残念な死だったという思いに繋がるのは危険だと感じたのです。
志村けんさんの死を通じて、看取ることも、送ることもできない状況を知りました。
今、この状況で、夫と会うこともできずに別れていたら、私は狂乱し、後を追っていたかもしれません。
両親が担ぎ込まれた先で、医療をうけられないまま死んでしまったら、私は病院を恨み続けたと思います。
想定外が起こっている今、生きるとは何なのか、大切な人への想いに躊躇わずに向き合い、
出来ることを考える時なのだと思います。
【想像できるか】
今、問われているのは『想像力』かもしれません。
私は、家族に、私が新型コロナウィルスにかかったら、医療者とよく相談して、人工呼吸器をつけても改善が難しいなら、外していいと伝えておこうかなと思っています。
感情がある中で、医療的判断を迫られるのは、究極の選択です。
その選択を繰り返したので、家族には背負わせたくありません。
それでも、義母や我が子にそんなことが起きたら、いくら意思を聞いていても、私は躊躇う。
その時は、医療者と話し、何が本人のためなのかを判断するしかないのだろうと考えます。
どんな別れでも後悔は必ずあります。
後悔を少しでも減らし、遺された者のその後の人生を支えるのは、いろいろなことを話してきたと思えることと、その状況で医療的な判断が可能な医療者と相談し、最善を考えたのだと思えることなんじゃないかと思います。
自分と大切な人を守るために、どう行動するか、どう生きるかを考えることも『人生会議』なのだと思っています。