【短編小説】ゆきのふらないまちの雪
その日の寄宿舎は、深夜から十七年ぶりの雪が降る、という話題で持ちきりだった。
先週末、冬休みに入ったため、ほとんどの生徒が里帰りをしており、いつもよりひそやかではあるが、普段と変わらず、清掃員のおじいさんや調理人のおばさんたちの景気の良い挨拶とチャイムの音で一日が始まった。
食堂からは焼き立てのパンと温かいスープの匂いが漂い、洗濯室にはせっけんの清潔な香りが充満し、体が不自由な生徒の世話をするシン先生のテンポよく打ち鳴らされる踵の音が廊下に響いた。
目の見えないマリは眠りから呼び覚ます匂いや音を感じながらベッドに横になっているのが好きだった。
目を閉じたまま待っていれば、先生がアルトの声で優しく朝の挨拶をして部屋のカーテンを開けてくれる。その小気味の良い音と、頬を温める朝の陽ざしが心地いい。
「マリ! おはよう。朝よ」
「おはようございます、先生!」
パジャマを脱いで先生のおさがりの肌触りのいいセーターを被る。サイドテーブルに置いたブラシで癖の強いもじゃもじゃの髪の毛をすく。
騒々しい靴の音が聞こえる。ケイだ。お下がりのぶかぶかのブーツをつっかけているので、ケイが走るとバタバタ音がした。
「マリ! ラジオを付けて!」
「おはよう、ケイ」
マリはケイの声がする方に向かって手話で話した。この可愛い弟は耳が聞こえないのだった。
ケイは見えない姉のために声を出して話す。マリはテーブルに置いた携帯ラジオのダイヤルをひねった。
「マリ、ラジオはなんて言ってるの? ねえマリったら!」
「待って、急かさないでよお」
ラジオで聴いたことを手話で通訳してやるマリだが、話される内容に追いつかないのに話はどんどん進むので、こんがらがってくる。
「ええっと……先日警察署に……『たぬき? ……が足にけがをして……道路わきでうずくまっている』と……中学生と思われる女の子から通報が……」
「じゃなくて、天気だよ! 天気予報!」
「えっ、天気」
そこに騒ぎを聞きつけたのか、再びシン先生が入ってきた。
「まあ、ケイったら、女子寮への立ち入りは禁止ですよ」
先生もマリのように手話を使って話した。
「先生! 雪はまだですか?」
「まだよ、ケイ。真夜中から降り始めるんですって」
「マリ、聞いた? 雪が降るんだよ、今晩!」
「ユキ?」
雪がわからずマリは首をかしげた。先生がマリの手を取ってマリの親指と人差し指をくっつけて丸を作り、雪の玉が舞い落ちて来るかのように上から下へゆらゆらと揺らした。
「雪、よ」
マリは先生から教わった通りに手の動きを繰り返した。
「ユキ、雪。雪? 雪ってあの……」
マリの顔がみるみる上気する。先生の声も明るい。
「そう、雪が降るのよ、マリ。十七年ぶりに。あなたたち、初めて見るでしょう」
朝ごはんを食べて体を温めた後、ふたりは自習室で勉強を始めた。目の見えないマリの代わりにケイが問題を読み上げてやる。
成績優秀なケイは勉強が苦手な姉の家庭教師の役も担っていた。ケイにヒントを与えられながらマリが導き出した答えをケイが答案用紙に書く。
しかし今日のふたりは雪のことで頭がいっぱいで全く勉強に集中できない。
「僕ね、本で読んだよ。雪はしんしんと音を立てて降るんだって」
「本当に? クリスマスの音楽には鈴の音が鳴っているけれど、そんな音かしら」
「鈴の音?」
「とっても素敵な音なの。ねえ、きっとそうよ、雪が降る時は鈴の音がするんだわ! ケイにも聞かせてあげたい!」
「僕もマリに見せてあげたいよ。雪はお星さまみたいな形できらきら降るんだよ。捕まえようとしても、すぐに溶けてなくなってしまうんだ。どんなにきれいなんだろう」
夜までがとてつもなく長く感じた。マリは何度もケイに時間を聞いたし、ケイも何度も窓の外を覗いた。
コートを着て外に出てみたが、空はピカピカの晴天で雪が降ってくるようには思えなかった。
ふたりきりでそんな一日を過ごし、夕ご飯の熱々のシチューを食べるころ、外は急に真っ暗になって空は雲に覆われはじめ、冷たい風がふきすさんで寄宿舎を揺らし、窓がガタガタと音を立てた。灯油ストーブに置かれたヤカンから湯気が勢いよく立ち上った。
「ねえ、まだ降らないの?」
食べ終わって談話室でくつろぐマリは小さな手を筒のようにまあるく窓にあてがって、そこ耳をあて雪の音を聞こうとする。
「降らないよ。シン先生が言ってただろ、真夜中からだって」
壁にかけられた大きな振り子時計が厳粛な鐘を鳴らして九時を告げる。
消灯の時間だった。シン先生が見回りに現れた。
「ふたりとも、もう遅い時間ですよ。居室に戻りなさい」
「だって先生、ケイは雪の降る音が……」
「『だって』と『でも』は禁止でしょ」
マリはもじもじと下を向いた。ケイはシン先生のエプロンにしがみつく。
「シン先生、雪が降るまで二人でいちゃだめ? 今日だけだから」
先生は子供たちの切実な瞳の訴えに心がぐらついた。そしてゆっくり息を吐いた。
「わかりました。今日だけ特別ね」
(かわいそうに、寄宿舎にはあの子たちしか残っていないんですから)
学校がある間、生徒は寄宿舎で介助を受けお互いに助け合いながら生活する。
冬の長期休暇に入った今、生徒たちは年明けに家族と過ごすため帰省した。ひとり、またひとりと帰って行き、とうとう身寄りのないマリとケイだけになった。
シン先生が彼らと出会ったのは今から四年前、冷たい雨の降る夜だった。
突然の土砂降りで校舎の水路が詰まり、点検に外に出た時、門の外に傘もささずに手を繋いで立ち尽くすふたりの子供を見つけた。
先生はふたりを校舎に案内し、乾いたタオルで体を拭いてやり、温かい飲み物を与えた。
――どうしてこんなところに?
――ママが待ってなさいって。
女の子が答えた。男の子はじっと外のほうを見つめている。女の子は目が見えないらしかった。目の色は濁り、どこを見ているのかわからない。
捨て子だと直感した。そう珍しいことではない。ここは体の不自由な子供たちのための全寮制の学校だ。
六才から十八才までの子供たちに、少数のクラスでそれぞれに合った教育をするといううたい文句の学校だが、同時に、障害児を閉じ込め管理するための場所でもあった。
国は障害者の社会進出を嫌う。自立に向け勉強をさせ職能訓練を受けさせるものの、無事に就職口が見つかり食べていけるようになる子供は稀だ。大半の子供はこの学校を出れば親元に返されるか、施設に入って一生を過ごすことになる。
雪に焦がれて窓の外を覗くふたりは、かつてママの迎えを待つと言って窓のそばからじっと動かなかったふたりを思い出させた。
あの頃のことを彼らは覚えているだろうか? 無邪気に笑い合う子供たちを遠目から見つめる。
彼らが自分たちに立ちはだかる現実にまだ気づいていないことが余計先生の心を切なくさせた。
早寝早起きの習慣が身についているので、さすがにマリもケイも眠気の限界が来ていた。
どちらかがあくびをするたびに、もう一人もつられてあくびが出た。マリは言った。
「降り始めたら音がするんだから、ちゃんと私が起こしてあげるわよ」
最初は意地を張っていたケイだが、マリの何度目かの申し出についに折れた。
「絶対だよ。雪はすぐに消えてなくなってしまうんだから」
ふたりはソファで先生が持ってきてくれた毛布にくるまり身を寄せ合った。
「マリ、マリ、起きて。朝だ」
ケイがマリを揺さぶる。マリは目をこする。
「うそ、だって何も聞こえなかったのに」
「マリ……雪が」
マリはとっさに耳を澄ませた。何の音もしない。いつも以上に音がない。
「何も……何も聞こえない……本当に何も」
窓をあける音がして、きんと澄み切った空気がマリの頬を撫ぜ、肌に強い光が刺し貫くように当たるのを感じる。
耳を澄ませば澄ますほど、マリは怖くなってケイのセーターの裾を握った。
「音のない音が降ったのだわ……」
マリは唇をふるわせた。
「ケイ、あなたがいつも聞いている音は、こんなにもおごそかで、美しいのね」
窓の外、一面のまばゆい光にケイは目を細めた。地は雪に覆いつくされ、空は朝日をごくわずかに透かす白い雲に覆われ、遠くの山々は降る雪に白くけぶっている。
ケイもまたマリの手を取って握りしめた。
「マリ、空も木も地面もぜんぶ真っ白だ。マリがいつも見ている風景は、こんなにも――」
雪が窓の淵へとちらちらと零れ落ちて来た。ケイは雪を手のひらにすくいあげて、きらめきながら溶けていく様をじっと見守った。
雪は淡々と降り積もる。
音もなく、色もなく。