gifted
こんばんは僕です。
79記事目です。
今日もめちゃ暑かったですね。天候が極端すぎて、体調やられそうです。
昨日、映画を観ました。『gifted』という映画です。
めちゃくちゃ良かったです。
生まれながら天才的な数学の才能を持つ女の子"メアリー"と、その女の子の母の弟である男性"フランク"との2人の生活を描いた物語です。
女の子の母は娘と同じく才能ある数学者だったんですが、ある日自殺してしまいます。自分がこの世を去る前に、娘を弟に託したところから2人の生活が始まりました。
母の望みは、メアリーに普通の女の子として生活してほしいというものでした。
メアリーのおばあちゃんにあたる、フランクの母はメアリーの才能を、社会の貢献="社会に名を残すこと"に使いたいと考え、それが本人にとって幸せなことだと信じて止みません。
フランクとフランクの母はメアリーの今後について対立し、裁判まで起こすこととなってしまいます。メアリーにとって幸せとか一体何なのか?最後はどうなってしまうのか?
っていうのが簡単なあらすじになります。
秀でた才能を持って生まれたメアリーにとって、その才能を伸ばしてあげてその分野で活躍させてあげることは、まったくもって悪いことじゃないし、最終的にはメアリーのためになるかもしれません。社会に貢献して、お母さんが成し遂げられなかった数式の解読をやってのけるかもしれません。
でもまだ小さな1人の女の子にとって、「それをしてあげることが本当に幸せなのか?」同世代の友達とたくさん遊んで、一緒にご飯食べて、何でも話せる友達ができて、そんな当たり前の日常と切り離してまで英才教育することが、「本当にメアリーが望むことなのか?」
フランクはメアリーの母の意思を尊重して特別扱いせずにメアリーを育てようとします。
メアリーのおばあちゃんのしいた"数学者として社会貢献すること"というレールが、最終的にはメアリーのためになるかもしれないし、それが結果的に幸せに繋がるかもしれないけど、そこに対話がないとただの"押し付け"でしかないし、それは子供に対して"自分の価値観を一方的に重ねていること"に他なりません。
この子はそうなるべく生まれた子なんだという考え方に、子供(本人)の希望や意思はありませんでした。※映画の中での話です。
結末は書きませんが、最後は心があったかくなるとても素敵な映画です。
一昨日のnoteでも書いたんですが、とても悲しいニュースがあって、そのニュースを見た時初めて、"華やかで、いつも笑顔で、優しくて、みんなから愛される人気者"って(僕が勝手に)思っていた芸能人の方でもそんなに思い悩んでたんだって、気づかされまし、本当にびっくりしました。
映画の中のメアリーを苦しめることでもあるけど、「"はたから見た勝手なイメージとかキャラクター(その人の才能)だけで、その人のことを判断してしまうこと"程、本人を苦しめることってないなー」と思いました。
「◯◯さんは、普段明るいから」とか、「◯◯くんは人気者だから」とか、「◯◯さんはいつも優しいから」とか。そんなのは受け取る側が勝手に作ったイメージで、本人はそう振る舞うことにストレスを感じてるかもしれないし、そのイメージに苦しんでるかもしれません。
本当にその人"本人"が思うところ、悩んでることなんて、本人の口から聞くしか知るすべはないはずです。
勝手な憶測で"話すべき"="判断すべき"ことでもないし、会話の中で打ち明けてもらうことでしか知る由もありません。
誰かにとっての"勝手なイメージ"や"推測(◯◯だろう)"は、「知らないところでその人を傷つけたり、苦しめたりする可能性がある」ってことは覚えておいておかないといけないと思いました。
これから、心無いニュースや報道や噂が飛び交わないことを祈るばかりです。
『gifted』をみて、作品の中でのメアリーやフランクの苦しむところと、ニュースで感じたことが少し重なる部分があったので、改めてnoteに残しておこうと思って書きました。
今自分にできることは「せめて自分の目の前の人に優しく、正直に会話する(してもらえるようにする)こと」しかないなと思いました。
あんまり悲しいニュース取り上げて書きたくはなかったけど、忘れたらダメな気持ちだと思ってあえて書きました。
本日も最後まで読んで頂きありがとうございます。
それではまた次回のnoteでお会いしましょう。ばいばい!
興井
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