いつも頭の隅にある
目が覚める。平凡な今日が始まる。なんてことの無い今日だ。
お弁当を作り、洗濯機を回し、朝ごはんを食べ、仕事の準備をする。
仕事の準備をしながら、仕事行きたくないなと心の中で溜息をつくのもいつもの通り。仕事に行けば行くで、朝のあの憂鬱はなんだったのかと疑問に思うほど何てことなかったりする。
そんな感じが私の日常だ。
その毎日の中で最近私が頻繁に思うのが、『私はいつまで生きるのかな』ということ。
この世に産まれおちてきた人間は、裕福も貧乏も天才も凡人も関係なく最後には死ぬ事が決まっている。それがわかっているのに人々は毎日を精一杯生きている。そして、そんな全ての人を私は尊敬している。
幼少期には、母親が看護師だったので家庭の中では病院内での出来事がよく話題にあがっていた。難しい病気の患者や気難しい医者、悲しいお別れや夜勤での怖い出来事などが多く、家ではストレスを解消するかのように職場の話をする母。病院での出来事は私には刺激的でとても怯えた。人の生の先の先には死という終わりが、大きく口を開けて待っているのだなと感じる事が増えた。
ドラマや映画で余命宣告を受けるような話を観ると、とてつもない恐怖が襲ってきて目を閉じずにはいられなかった。家族の誰かが具合を悪くすると、何の病気なのかなと考え過ぎては体が震えた。
大人になった今もそれは変わらない。それなのに私は医療系の仕事についてしまった。多感だったはずの学生時代に良いも悪いも影響を受けたのは母親だったからかもしれない。医療の仕事をしている事でより様々な病名が身近になってしまった。
自分の事だけを考えてた10代は死ぬのが怖いと思うのと同じ熱量で、早く死にたいと思っていた。友達との衝突や、自分が何者でもないという劣等感や、勉学に励む事が一番と考えてた親への反発心で、メモ帳に消えたい消えたいと書く殴る日々だった。今思うと死にたかったわけじゃなく、何も出来ない現実からただ逃げてただけ。死にたくない。ただ、少女漫画のようなキラキラした恋だけに悩む毎日を生きたかったんだと思う。
自分でお金を稼ぐ事ができるようになった20代は失敗ばかりしていて、生きてる事を当たり前に思いながらも、いつか死ぬのだからどうにでもなれと思っていた。ただ、20代も後半に入ると親が癌を患ったり、心筋梗塞で倒れたり、親の生命が危ぶまれる事が増えるようになった。愛犬の死を受け入れないといけない時もあった。幼い頃よりも現実的に、家族や親類の命を尊く思う瞬間が増えた時期だと思う。
社会人生活が長くなり結婚もして自分だけの人生じゃなくなった30代。自分のペースとは違う生活をするのが精一杯だった。そして今や30代も中盤にさしかかり健康診断の項目も多くなった。ふとした時に感じる色々な痛みに不安を感じる事が多くなってきた。親の健康はもちろん、自分の健康に神経質になってきた。
虚構の世界に入り忘れゆく老い、素晴らしい新たな生命の誕生、生活を揺るがす不安定な痛み。今年は生と死を深く考える出来事がより多くあり、『いつか死ぬ』という実感が大きく膨らんで私を厚い膜で覆う。
それがいつなのかわからない事がありがたい。それがいつなのかわかる事が怖い。
そんな事をぐるぐる繰り返し巡る思考。
いつも私の頭の隅にあること。
ただただ素直に書いてみた。