第十夜

「さようなら。」
午前3時の生ぬるい温度が広がる晩夏の寝室。汗で髪が顔にへばりつく。とても不快な感覚は髪のせいだけではなかった。

さっきまで動いていたものが止まる瞬間を男は見ていた。手を握ればまだ温かくて、優しく指を絡めてみる。愛がなくてもこんなに温かい。歪んだ顔をそっと抱きしめてみた。それから丁寧に涙を拭って、口を閉じた。

さっきまでの嵐が嘘だったみたいに、秋の虫がリーリーと鳴いている。煙草はとびきり美味かった。でも、世界に存在価値は無くなった。これで最後の煙草だ。

豆腐屋のラッパが遠くから聞こえる。あんなにキラキラしていた日々を覆い尽くすような嫌な記憶。さっきまで明確に残っていたものは、不快感と共に消え去った。本当に綺麗な愛情だけが残った。「愛してる」なんて陳腐な言葉じゃ足りない。これは、生涯をかけた愛だったろう。

急いで散らかった服をかき集めて、外へ出る。夜が近づいた公園のブランコは静かにとまっている。思い切り漕ぎ出すと、地平線の先の沈みかけた太陽がある。煮玉子みたいに橙だった。ふと、思い立って、すぐ下の土を掘り返して、電話を埋めたら、ひとりぼっちになった。

その場で体育座りをした。目を膝で塞いで、耳を指で塞いだ。血管の音がする。生きていることが怖くなって、裸足で走り出して行った。

こんな夢を見た。