励ましの贈り方
今日は、サカナクションの山口さんがうつ病を公表した記事を読んだ。元記事はこちらから読んでいただきたい。
うつ病の辛さ。厄介な面はここに書かれているものも多いと思う。きっと全てを語っているわけではないと思うが、共感できる人も多いと思う。
ここで出てきた加藤浩次さんの励まし方に対し、意見が分かれていた。少しだけ共感できる。「おー、なんだ。元気そうじゃん。」みたいな軽いノリは時として激痛が走る。しかし、気づいてみれば深刻に言われるよりも楽に感じることもある。難しい。その人がその時に欲しているトーンの会話をするなんてすごく大変だ。実現不可能かもしれない。
僕が言われて怖かった言葉たちを紹介する。
1つ目は「これからは、元気にね、がんばれるってことよね。」だ。そんな馬鹿なことはない。薬を飲めば回復するような風邪とは違う。返答に困った。「はい。」としか言えなかった。腹が立つような気もするし、悲しい気分にもなる。惨めだった。惨めに感じる己のプライドすら、嫌ってしまう。
2つ目は「元気なら帰るよ。」だ。これは僕の自分勝手である傷つきだから、嫌な人は飛ばしていただきたい。呼び出したのもこちらで、介助してもらっているのも、こちらだ。不安で堪らなかった。自分の内外がぐちゃぐちゃになる。「大事にしたいものも忘れてしまうかも。」という不安が怖くて死んだ方がマシだと感じていた。人がいると自分が戻ってくる感じがしていた。もちろん、それを盾に他人を振り回したのだから、僕が悪い。元気なら、こんな馬鹿げた不安、出てこないでしょう。きっと。
僕に向けられた怖い言葉たちを思い出すたび、怒ったり泣いたりしている。恐ろしい毎日の底に、怖い言葉たちは隠されている。きっと同時に救われた言葉もあったと思う。あろうことか、底なしの不安が勝り、ありがたい幸せな言葉たちがぱっと思い出せない。ごめんなさい。
励ましの贈り方に正解なんてない。関係性と人柄、環境や状況によって言葉はいくらでも変化する。もちろん受け取り手の心象によっても。励ます行為はご機嫌を取ることじゃない。温かい手を差し伸べること。きっと土砂降りの雨の中に傘を持って行くことだ。
持ちうる温かさを総動員したって届かないこともある。醜い我欲を前に、何人が本当の優しさを見失わずにいられるのだろう。きっと純粋に優しくすることなんてできない。優しさを曲がらずに受け取ることなんてできないのだ。
言わずにしていた優しさ。丁寧に行う優しさ。優しくあろうとする優しさ。見えない部分の優しさがいつか大きくなって返ってくると教えてくれたのは誰か、思い出したい。
励ましが優しさだと考え抜ける脳みそ、思考回路、戻ってきたら、また優しくなれるだろうか。優しくできるだろうか。