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どん底までの序曲~#3

こんにちは。
前回、余談まで書いたところでフラッシュバックを起こしてしまい、思わず筆が止まってしまいました。ごめんなさい。
この#3で終わりにしようと思います。
段々つらくなってきましたので最後端折って書きます。

途中の内容は大したことを書いているわけでもありませんし、
よくあるシステム開発失敗プロジェクトのたった1つです。
お時間と興味がある方は読んでいただければ幸いです。

せめて教訓だけでも誰かに届きますように。

時は1997年ころのお話です。

教訓を先に書いておきますね。

  • 見積金額やスケジュールなどは当事者目線で、相手が例えどんだけ偉い人だろうと、社長だろうと、部長だろうと突っ張るところはトコトン突っ張る。

  • システム投資に妥協は禁物。

  • 自信のないプロジェクトには決して首を突っ込まない。

  • 独りよがりになってはいけない。会社には同僚、そして外部ではあるが協力会社、そしてお客様も存在する。自分が回しているんだという気になってはいけない。

  • 自分に協力してくれる人は全力で守れ。

  • 責任の範疇は必ず開始前に決めておく。

  • 過度なペナルティを課してはならない。

次にハラスメント
ここにきてあまり書きたくないのですが、簡潔に 

- 毎週社長室での報告の際、なぜか見積の甘さを指摘されそれについて釈明させられる。(いやいや、わたしは当初から受注額の5倍の金額で見積もっていますから。証拠も持っていますし。)

- プロジェクト失敗の原因はわたし一人という前提で毎回報告がなされる。事の発端を招いた一因の営業担当は、なぜか自分は無罪だと言わんばかりに社長側の立場で言葉を吐く。

- 会社の全体会議の場で社員全員に謝罪をさせられる。

- 1プロジェクトを回している最中に別プロジェクトの他社への営業・マネジメントに任命される。最大4プロジェクト掛け持ち(体は1個しかありません)

- 当時流行り始めた携帯電話を持っていたが、関係各位に電話番号がバレてしまい夜中でも電話が鳴る状況となった。(バラした張本人はわかっている。絶対に忘れないからな!)


このプロジェクト以来、パニック発作が不定期で起こるようになりました。
心療内科を初めて受診しました。しばらく抗不安薬投与とカウンセリングを受けるよう言われました。
発作がいつ起こるかわからないので電車に乗れない。つまり日帰り出張などはムリ。通勤も恐る恐る各駅停車を利用するようになりました。
不眠にも悩まされました。

でも私のメンタル崩壊はここでは止まりませんでした。
最終的には精神科に3回入院することになります。
また別の記事にしたいと思っております。

//ここまでで離脱の方へ
つたない文章でしたが、ここまでお読みいただきましてありがとうございました。



では最終章です


現状はわかった

お客様システムの現状をヒアリングし続けて1か月ようやくブラックボックスの内側がこじ開けられてきた。

「うへぇーここまで機能があったのね」とベテランさんと驚きながらも3年目君も交え要求定義ドキュメント作成作業に没頭した。
毎日それぞれの終電の時間になるまで作業は続いた。

すでにコストと実績の乖離が始まっていた。

設計・開発ラッシュとサーバーのミスマッチ

メンバーの疲れも見え始めていたものの、開発を進めるためには設計書が必要。

何をどう作れといった感じで、かなり雑なものだったが、最低限これがないとプログラムが組めないという最低ラインでベテランさんと3年目君が主体となり、設計書作成が始まった。

スケジュールを見てみると1か月の遅れ。ヤバ(背中に冷たいもの。


ところでわたしの方はといえば、システムを稼働させるためのハコ、サーバーの設定を一から始めていた。
実はこの作業は初めてのものだった。

複雑なマニュアルと首っ引きでサーバーと格闘。OSが終わったらデータベース。とにかく突っ込んだという表現がふさわしい。

システムの稼働状態を確認するために評価用プログラムを何本も同時に走らせる。
あら、全然パフォーマンス出てないじゃん。それどころか、現行の古いシステムの方がベンチマークいいではないか!!!

やられた。
メーカー側の思惑で、売れ残っていたしょぼいサーバーを営業サイドで処分するつもりで導入したらしい。
当初は最新鋭機器を導入するって言っていたじゃん。。。_| ̄|○
パフォーマンスが約100倍ちがうのよ。

ほんまにこのシステム稼働するんか???

上司に訴えるも「営業的な戦略があるから、そのスペックで凌いで。」となぜか営業サイド寄りだったなぁ。マシンスペックについても疎かったし。
当時の会社では売れりゃ何使ってもいい風潮はあったのよね。
良くないよね。自社にもお客様にも。


一方、ベテランさんと3年目君の努力もあり、設計書が次々とできてきていた。

できた設計書を次から次へとレビュー・プログラミング・単体テストへと協力会社に回し続けた。開発ラッシュが始まった。

できたプログラムはお客様の作業フローの上位からリリースしてゆき、ユーザー打鍵テストも含め紙の伝票をデータベースへと登録していった。

できた設計書はチューブファイルにして約30冊。結構な大作となった。
(当時は紙文化。設計書もプリンタで出力しファイルに綴じていた)

終電まで頑張ってくれたメンバーには感謝しかない。

痛い凡ミス

そんな時、やっちまった。

サーバーのパフォーマンスがそもそも出ないことを承知で、特にデータベースの稼働状況がよろしくなく、どうしたものかと連日パラメータと格闘。
ベンチマークを取るも芳しくない。

上司にメモリの増設を懇願したがあえなく却下。
やっぱり最初から香ばしいニオイがするプロジェクトって必要なものは渋るものよねー。

その頃は徹夜が続いており結構頭が朦朧となっての作業を行っていたが、ある時奥の手を思いつき実施した。
ただ、データベースのバックアップを取ることをすっかり忘れていた。
こんなん基本中の基本なのにね。どうしちゃったの自分。

奥の手とは今でいうプーリングというやつでしょうか。
当時はそのような考え方はなかった。
いまでこそ普通の用語なのだが。。。

結論から言うと効果はあった。最初の一回は。
ただ、データベースを破壊しまくった。
ここは詳しく書きたくない。お恥ずかしいミスをしたからだ。

さて、リカバろうか。バックアップも取り損ねていたし。
とりあえず1世代前のバックアップから復元を開始したが、原状復帰は無理である。

早くも奥の手を使った。お客様の前で「データベースを破壊いたしました。大変申し訳ございません。」と土下座を重ねた。

わたしの上司へも話が飛んで行き、思いっきり叱責された。
”まぁわたしの責任だしね。やっちゃった者が悪いよね。クビにしてもいいよー”
くらいの思いはあった。案件継続になったけれど。
本心は「もうやりたくないよー。誰か代わってー。」

//後で知ったのだが、
//最初私が出した見積が通っていたらこんなことにはなって・・・弁解が
//ましいし潔くないからもう書かない

それでも開発は続きリリースへと

何で20数年前のことなのによく覚えているのだろう。よっぽどメンタルやられていたんだなぁ。

事故があったものの、秘策、「入力代行」を繰り出し欠損したデータベースは現状復帰した。

とはいえまだまだプログラム開発は続き、協力会社のメンバーまでもが終電間際まで作業をする状態になった。

実際今になって考えてみるとスケジュール感が全くなかったなぁ。
きっとバブル時代の頭でエイヤーと考えちゃったんだろうなぁ。

とはいえ、全リリースまでスケジュール大遅延、コスト大幅増で開発プロジェクトはいったん幕を閉じた。
ひたすら叱責されひたすら頭を下げ続けた1年数か月だった。

簡単に書いちゃっているが、リリース後のお客様フォローも重要ということだけ付け加えさせていただきたい。
実際バグも出ることだし。

同社にいることはとても辛いことだったのですがまだ退職願は提出しなかった。

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ここまで勢いに任せて書きなぐってしまいました。

お見苦しい文章とはなりましたが最後までお読みいただきましてありがとうございました。

感謝。


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