生きるほどに

生きれば生きるほど、自分の人生の中の解像度が上がってゆく気がするけれど

だからこそ、自分の人生がわからなくなってゆく。


物心ついたときからほんのりと「自分は結構生きづらいタイプなのではないか」と考えてきたけれど、その生きづらさが「性」に繋がっているからだということに30年あまりのこれまでの人生でやっと気がついた。

トランスジェンダーだとか、性同一性障害だとか、レズビアンだとかバイセクシャルだとか、そういう名前がつくのかというとそうではない気がするのだけれど


例えば可愛い服を選んだときに「やっぱり女の子だね」って言われるのが猛烈に恥ずかしくて、なにか間違ったことをしたような気がして。
かといって兄のウルトラマンで遊んだり虫採りしたりしてるときに「男の子みたいだね」って言われるのは嬉しくなくてなんだか責められているような気がして。

だからこそ、絶対に髪は伸ばして可愛いゴムで結うけれど、絶対にスカートは履かない、みたいな中途半端な子ども時代を過ごしてしまった。「私」とも「僕」とも言いたくなかった。

自分が「女」であることに折り合いはつけたつもりでいるけれど、未だに男とか女とかの役割を強く意識させられるような場にはなるべく行きたくない。


私にとって、生きやすい世界が少しずつ広がってきているのを感じる。
世の中の人々が考えを変えてきたのには、相応の努力をしてきた先人たちのおかげである。

中途半端に生きている私には世間の考えを変えるだけの努力ができなくて申し訳ない限りだ。

時代の恩恵に授かれることに感謝しながら、中途半端に生きてゆく。

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