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teamLabで展評書く奴おる?

【注意】
チームラボの悪口にならないように気を使いますが、気を悪くされた方がいたら申し訳ございません。
素晴らしい体験芸術であることだけは最初にお伝えしておきたいと思います。
ただ、私自身と展示の相性がすこぶる悪かったので、なぜなのか考察してみようと思ったのがこの展評です。オチのない駄文です。

【展示概要】
◇展示会名
水に入るミュージアムと花と一体化する庭園
#チームラボプラネッツ
◇会場
東京 豊洲
◇会期・時間
2018.07.07-2027末
9:00-22:00
◇チケット
日時指定※当日券あり
大人¥3,800(税込)
◇概要(公式サイトより引用)
他者と共に、身体ごと没入し、身体で認識し、身体が世界と一体となる
チームラボプラネッツは、アートコレクティブ・チームラボによる4つの巨大や作品空間と、2つの庭園からなる「水に入るミュージアムと、花と一体化する庭園」。
はだしとなって、他者と共に身体ごと巨大な作品に没入し、身体によって作品は変化し、身体は作品との境界の認識は曖昧なものとなる。作品は、他者の身体によっても変化し、作品と他者との境界も曖昧なものとなり、身体は作品と、そして他者と連続的になる。


インスタとか公式サイトにドカドカ写真付きで載ってるんで展示概要詳細はそっち見てみてください。


というわけでここからは所感です。

まず、チームラボ、本当にすごいです。

何がすごいかというと、芸術の存在意義の1つである「鑑賞者の世界を広げる」ことを、新しい手段でしかも大規模に達成しているってところです。

「チームラボ ボーダレス」って響きに馴染みがある方もいらっしゃるかもしれません。
これこそが、チームラボのメッセージです。
冒頭の展示概要にある通り、世界と身体、他者との境界を曖昧に感じさせることが目的みたいです。

ここから先は私の考えなんでチームラボの目的でないかもしれないのですが。
世界と身体、他者との境界を曖昧にする意義はなんでしょう。
私は1人1人が当事者意識を持って世界の構成員になってほしいからだと思っています。
止まらない環境破壊、終わらない戦争。世界のどこかで起きている出来事を私たちは液晶越しに眺めているだけです。
人と世界との境界が曖昧になれば、もっとスマホやテレビの向こう側の隣人に優しくなれるような気がするのです。

チームラボの展示の中で、はだしになって水を感じ、庭園で自然光や花の香りに包まれた時、五感を通じて私は世界を構成する一部なのだと思うことができました。
スマホの向こうの隣人に想いを馳せる時、以前より暑さや血の匂いが以前より重々しくリアルな現実としてのしかかってくるような気がしています。

私がチームラボに感じた居心地の悪さは、私の体験したような感覚を他者も同じように感じていると思えなかった点です。
作品は世界のメタファーではなく、単なる映え背景として扱われているように思えたからです。

鑑賞者は丁寧に他言語でたくさん書かれたキャプションを素通りするし、写真が撮りづらいエリア(暗い、映えていない)は足早に通り過ぎていく。
チームラボのメッセージに興味を持たず、用意されているコンテンツはエンタメとしてゴリゴリ消費する。

ここまで書いてみてわかったのは、私が強く共感したメッセージを、他の鑑賞者は興味がなさそうに素通りしていることが嫌だったんだと思います。
あとアートだってビジネスしないといけないのは頭でわかりつつも、ビジネスのためにアートが消費されているように感じたのもしんどかった気がします。

多分チームラボが伝えたいメッセージを意図通り伝えるならば、カバンや靴だけでなくスマホもロッカーに預けた方が良いと思います。
ですが、チームラボが撮影禁止になったとして来場者数をキープできると思えません。

私はスマホを介して作品を鑑賞すると、作者の意図の理解度が下がるような気がしています。
生身の自分と作品という向き合い方が、最も純粋に作品が楽しめるような気がしてならないのです。
スマホが間に入ることによって、「アイコンに使う写真」「インスタに載せる写真」「後から家族に見せる写真」というような、鑑賞者側の意図がノイズとして作品鑑賞の邪魔をしているように感じています。


だからと言って、チームラボはあーしろ、鑑賞者はこーしろなどというつもりはありません。
でもチームラボには、エンタメとして消費され、映え観光地として扱われるには勿体無いメッセージがあります。
だからもっとチームラボに対して、作品として批評があってほしいと思っています。

だって現状、チームラボで展評書く奴おる?

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