要介護4から要介護2へ
母の介護と旅立ち、そして向こうの世界とこちらの世界の架け橋⑰
初めて介護保険の申請をした時、要介護4の認定が下りました。
その時は24時間在宅酸素を使い、圧迫骨折もしていてベッドの上に寝たきりで、寝返りもうてない状態。
認知能力面のこともあり、早朝でも夜遅くでも、少しでも身体に触れようとすると大声で、痛い!痛い!痛い!っと大騒ぎ。
上の階のお家のちょっと大きめの生活音や、時にはどこかのお家での大きな声やテレビの音なども聞こえてきてしまうマンション住まいなので、この母の声もご近所の方々に聞こえているのかも・・・と、いつもはらはらしながらどうしよう・・・と、焦りまくっていました。
もしかして、虐待しているのかもとか思われてたりして・・・
うるさい!って誰か怒ってるかも・・・
どうしても周りの目を気にして、誰かに誤解されてるんじゃないか、変に思われてるんじゃないか・・・なんてことに怯えていたのかもしれません。
でも幸い、私がご縁のあるご近所の方々は皆さんあたたかい方ばかりで、我が家の状況を察してくださり、本当にいつも気にかけてあたたかい言葉をかけて下さっていました。
そのことでどんなに救われたかわかりません。
今の時代、ご近所さんとの程よい距離感って難しいかもしれませんが、そこで得られる安心感や心強さはやっぱり貴重ですね。
そんな状況の日々が、ある頃から徐々に変化してきたのです。
その結果が介護保険の更新時に出された、要介護2!
要介護4から、要介護2へ!
そうなんです。介護度が軽くなったんです。
本人の状態はそんなに変わっていないのに、介護度が変わってしまったとかいうことを聞くことがあります。介護度が軽くなると利用できるサービスが減ってしまい、日々の生活が制限されてしまったり、健康状態にも大きな影響を及ぼしてしまったりと、本当に大きなことだと思います。なのに認定が厳しくなってしまったり・・・
ただ母の場合この変更は、母の大きな変化によるものでした。
以前書きましたが、長い間引きこもり状態だったのに、ある時から外へ出ようとしてくれたというあの時と同じく、また自分で動き始めてくれたんです。
私の負担を減らす為に頑張ってくれていたのかもしれません。
外に出る楽しみをまた味わいたいという強い思いもあったと思います。
とにかく母は再び酸素チューブをお供に自分のペースで動きまわれるようになってくれました。
会話も普通に戻っていました。
だからと言ってなんでもちゃんとできて・・・とはいかなくて、仕事から帰って慌てて家の中の掃除、ってことは結構続きましたけど。
それでも私が休日の週末には、通院以外に買い物やランチなどにも行き、いつもすごく楽しんでくれていました。
それと共に下着も介護用のものではなく、普通の、しかも私よりおしゃれな下着を身に着けるようになり、それで問題なく過ごせるようにまでなってくれました。
母は本当に不思議な人です。
突然、ホントに突然すごいパワーを発揮して、時には病院の先生まで驚かせてしまう不思議な人です。
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