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マンボの王様ペレス・プラード楽団「マンボNo.5」
私(余語丈範)がペレス・プラード楽団のメンバーとしてジャパンツアー(三重県公演)に参加した時の動画です。担当はボンゴです。 ペレス・プラード生誕100年 来日60年記念コンサート (日本公演2016年7月27日) ペレス・プラードの代表作 「マンボNo.5」 【はじめに】 みなさん「マンボ」を知っていますか。 アァ〜うっ!のあの「マンボ」と言われれば、ご存知の方も多いかと思います。 今は、小学校の音楽教科書にも「マンボ」が載っているんですよ。 では、あの「マンボ」を作ったのがペレスプラードだということはご存知でしょうか。 「マンボ」を知っていても「ペレス・プラード」の名前を知っている人は少ないかもしれません。 そこで、マンボを世界的に大ヒットさせたペレス・プラードについて、ぜひ知っていただきたいと思います。 【そもそもマンボって?】 1940年代初め、キューバのミュージシャン達の多くは、仕事ではアメリカのジャズを演奏していましたが、仕事が終わるとキューバの伝統的なリズム「ソン」を演奏しディスカルガ(セッション)を楽しんでいました。 そのディスカルガを通して、新しい音楽を生み出そうとする機運が高まり、ソンの特徴であるモントゥーノ(同じ部分を繰り返して演奏する部分)からマンボが発生したというのが今の定説になっています。 しかし、初めにマンボを作り出したのは誰かという疑問は未だに明らかになっていません。 また、マンボは色々なミュージシャンによってレコーディングされていますが、その中でも世界的に流行したのが、ペレス・プラードがつくった「マンボ」でした。 なぜなら、ペレス・プラードの「マンボ」と、他のミュージシャンの演奏するマンボは全く異なる音楽だったからです。 【ペレス・プラードのマンボの特徴とは?】 ペレス・プラードは、少年時代に夢中になったルンバ(ここで言うルンバとは、社交ダンスのアメリカ式のルンバとは違い、数人の打楽器と歌で激しいリズムを奏で、それに合わせてダンサーが踊りを繰り広げるもの)と、当時流行していたアメリカのビックバンドジャズの要素を組み合わせ、そこにとてつもない高音を奏でるトランペット演奏「マリアッチ」で鍛えられたトランペットの音色を取り入れました。 サクソフォンの歯切れの良いスタッカートに、今までメロディーを担当する楽器であったトランペットにブライトなリズムを刻ませる役割を与えた強力なブラス。そこに複雑に奏でる打楽器をミックスし、彼のトレードマークである「アァ~うっ!」の掛け声が響き渡る。この彼独自のサウンドが、世界的ムーブメントを起こした「ペレス・プラードのマンボ」なのです。 【ペレス・プラードはこんな人】 ペレス・プラードは1916年、キューバの港町マタンサスに生まれました。幼少の頃からクラシックピアノの手ほどきを受けましたが、少年時代に夢中になった音楽はルンバでした。 16歳の時にはピアニスト兼楽団リーダーとして放送やダンスホールに出演。1940年ごろ、キューバの首都ハバナに移り、カシーノ・デ・ラ・プラージャという有名な賭博場でピアニストとして活動します。この頃に、ペレス・プラードは彼独自のマンボのアイディアを思いついたと言われています。 そして、ペレス・プラードはラテン音楽業界の中心地メキシコに音楽活動の拠点を移します。 ペレス・プラードはメキシコシティーで新たに自身の楽団を結成。彼が1940年代後半に作曲した「ケ・リコ・エル・マンボ 」(マンボ・ジャンボ)、「マンボNo.5」がメキシコを始め、アメリカやヨーロッパ、中南米そして日本で大流行しました。 「黒馬のマンボ」や「マンボNo.8」など、数々の傑作を精力的にレコーディングしたペレス・プラードは、「マンボの王様」として世界で活躍するようになり、1950年代の中頃からはアメリカに音楽活動の拠点を移します。 ペレス・プラードのマンボは更にヒットを連発しますが、中でも1955年の映画「海底の黄金」のテーマ曲に使われた「セレソ・ローサ」は、派手なトランペットをフィーチャーしたスローテンポなマンボ(マンボスビーといいます)にアレンジして大ヒット。もともと「バラ色の桜んぼの木と白いリンゴの木」というシャンソンが原曲で、ペレス・プラード楽団のコンサートでも大変な人気のあるマンボの一つです。 そして1958年、ペレス・プラード作曲で彼の電子オルガンをフィーチャーした「パトリシア」が大ヒットし、全米No,1に輝きました。この曲には、ペレス・プラードが作った「ロカンボ」というリズム(マンボとロックを組み合わせたもの)が使われており、その後もペレス・プラードはたくさんのリズムを作り出します。 マンボをベースにボンゴソン、チュンガ、コシコシ、デンゲなどペレス・プラードはイノベーターとしての才能も更に発揮していきました。 1970年代、ペレス・プラードは再びメキシコに音楽活動の拠点を移します。 日本には1956年に初来日し、浅草にあった国際劇場のステージで熱演を繰り広げました。ちなみに、戦後日本の来日海外アーティストの第1号がペレス・プラードです。 ペレス・プラードは、その後も17回の日本公演を果たしました。(最後の来日公演は1987年) ペレス・プラードは、1989年9月14日にメキシコで死亡。享年72歳でした。 【今でも引き継がれるペレス・プラードサウンド】 その後、「ペレス・プラード楽団」は2代目リーダーの、へスース・ガルニカ・マルティネスが率いて活動し、現在は3代目リーダー、へスース・ガルニカ・ジュニア(イスラエル・ガルニカ)がペレス・プラードの伝統と歴史のサウンドを引き継いで活動しています。 (来日公演はペレス・プラード存命中も含め、30回以上開催しています) 今でも引き継がれるペレス・プラードサウンド。楽くて元気の出る、そして個性的なペレス・プラードサウンドを、今後も多くの人にお届けいたします♫ 参考文献 ・ペレス・プラード楽団1992年、1998年来日パンフレット ・なんだかんだでルンバにマンボ/中村とうよう著/ミュージックマガジン
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マンボブームを巻き起こした頃の曲「問答無用(Ni Hablar)」
ペレス・プラード作曲の「マンボ・バティリ」(テンポの速いマンボのこと)です。 ブラス隊の色鮮やかな演奏のうえに、迫力の打楽器隊が活躍する曲です。 スリリングな演奏に、ワクワクする曲です。 とんでもなく速いテンポの演奏に「お見事!」と圧倒されます。 曲名の「Ni Hablar」は「話すこともない」という意味で、曲中のコーラスでも歌われています。 初レコーディングは1951年もしくは52年ごろと思われます。まさにペレス・プラードがノリに乗っていた頃です。 この曲もその後、何度かレコーディングされていますが、ペレス・プラード晩年の録音では、 少しテンポを遅くしたエキゾチックな雰囲気を醸し出す演奏になっています。
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ペレス・プラードの名カップリング曲といえば花火
ペレス・プラードの有名曲といえば、闘牛士のマンボやパトリシアなど数々の名曲がありますが、それらのカップリングに入っている隠れた名曲が「花火」です。 アメリカに拠点を移したペレス・プラードは、ジャズやロックなど様々なジャンルの曲をアレンジしています。 その頃レコーディングされた曲のひとつが、この「花火」です。 キング・ギオン作曲のナンバーをアレンジし、1957年6月28日にレコーディングされました。 この曲は、日本ではアルバムの他EP盤でも発売されており、「ララバイ・オブ・バードランド」とのカップリング盤、「パトリシア」とのカップリング盤、「ある恋の物語」とのカップリング盤、『「メロンの心」「キエン・セラ」「闘牛士のマンボ 」』とのカップリング盤などで発売されました。 マンボのリズムとは違うジャズのテイストで花火が打ち上げられる様子を表現しています。 わたしは好きでよく聴いているのですが、実際のツアーで演奏されることは少ないのが寂しいところ。。。 それでも、何度か生演奏を聴いています。ギターのメロディーだったところを管楽器でカバーしており、それもまた色鮮やかなサウンドで、とても新鮮でした。 アメリカでの商売を意識したマンボ王は、アレンジ王でもあるのです
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ペレス・プラードがメキシコで初めてレコーディングした曲
ペレス・プラードが、キューバからメキシコに音楽活動の本拠地を移して最初にレコーディングした曲が「ホセ」です。 1949年4月5日にレコーディングされました。 サクソフォンの不協和音に続き、トランペットがとても印象的な曲です。メキシコ人プレーヤーによるブラス隊の引き締まった厚みのある演奏は、ペレス・プラードの音楽には欠かせない存在となっています。 この後「ケ・リコ・エル・マンボ」や「マンボNO.5」などの大ヒット曲がレコーディングされていきます。 私が初めてペレス・プラード楽団のコンサートを観に行ったのが1992年のジャパンツアーでした。 このコンサートの1曲目が、記念すべきペレス・プラードの初メキシコ録音曲である「ホセ」でした。 この曲を聴いたのはこの時が初めてだったのですが、異国情緒漂う不思議なメロディーにノックアウトされました~
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ペレス・プラード楽団の「キエン・セラ」
タイトルは「誰かしら?(=キエン・セラ)」。この曲はメキシコのルイス・デメートリオが1953年に作詞作曲しました。 ペレス・プラードがマンボにアレンジして、いくつものバージョンをレコーディングしています。 なかでも、ローズマリー・クルーニーのボーカルをフィーチャーした名盤「タバスコの香り」に収録された「キエン・セラ」は華やかな歌声とともにペレス・プラードのアレンジが光っています。 「タバスコの香り」は1959年7月末から8月にかけてハリウッドでレコーディングされました。 私がペレス・プラード楽団のメンバーとして演奏した時は、この「タバスコの香り」バージョンを短くしたもので、名曲「ク・ク・ル・ク・ク・パローマ」とメドレーで演奏しました。動画はその時のものです♫ 私は、この「タバスコの香り」バージョンも好きなのですが、いちばんのお気に入りは1974年の来日公演の際に日本ビクターでレコーディングされたバージョンです。 ペレス・プラードの落ち着いた独特のタッチの前奏で始まり、美しいトランペットのソロが光ります。 マンボの激しいリズムの曲も大好きですが、この落ち着いた雰囲気のマンボもとてもお気に入りです。
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ラテンミュージックの名盤「ハバナ午前3時」とベニー・モレーとの共演盤
どの音楽ジャンルにも代表する名盤が存在しますが、ラテン音楽の名盤といえばペレス・プラードの「ハバナ午前3時」。そしてペレス・プラードとキューバを代表する大歌手ベニー・モレーとの共演盤があげられます。 「ハバナ午前3時」は1956年2月23日、25日、3月7日にレコーディングされ、日本では1967年10月に発売されました。 「マンボ・スビー」というリズム(テンポを遅くし、トランペットなどがメロディーを演奏するマンボ)の傑作とされており、「ベサメ・ムーチョ」や「ある恋の物語」などのラテンの名曲も収録されています。ペレス・プラードのアレンジの素晴らしさが分かる名盤です。 私はペレス・プラードの曲の中でもテンポの遅い曲(マンボ・カエン)やマンボ・スビーが大好きで、この「ハバナ午前3時」のアレンジも、もちろん大のお気に入りです。 コンサートでは「ボンゴ」を担当しました。ゆっくりとした曲では、ボンゴは特に華やかでメロディアスな演奏をします。いわゆる味付けで、曲の雰囲気を決定付ける役割を果たしています。 大好きな曲を、好きなように(もちろんペレス・プラードが好みであったと思われるフレーズを駆使して)演奏する楽しさと面白さを噛みしめながら叩きました。嬉しかったです!! さて、もう1枚のベニー・モレーとの共演盤のお話です。 レコーディングされたのは1949年から1951年の間です。 この共演はラテンミュージック史上最高傑作とされており、「マンボの王様」と「キューバの国民的歌手」がタッグを組んだ名盤中の名盤です。 ペレス・プラードの独特なサウンドに、明るく伸びのあるベニー・モレーの歌声が異彩を放ちます。 最近では、「素晴らしき出会い」というタイトルでCD化されていたようです 初めてのレコーディングの49年頃は2人はまだ大スターではなかったと思いますが、それぞれ実力を発揮していき、ペレス・プラードは「マンボの王様」そしてベニー・モレーは「キューバの国民的歌手」という地位までのぼりつめました。 ベニーモレーは1963年2月19日に43歳で病死。キューバは偉大な宝を失ってしまいました。 私は2016年のジャパンツアーで、この2人がレコーディングした曲を2曲演奏しました。 ペレス・プラード、そしてベニー・モレーが残した素晴らしい功績に敬意を払いながらの演奏となりました。動画は2016年ジャパンツアー時の「パチートエチェ」です。
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ペレス・プラード3大組曲に並ぶ意欲作「キューバ幻想曲(Mosaico Cubano)」
ペレス・プラードが作曲した3大組曲に、「ブードゥー組曲」「エキゾチック・アメリカ組曲」「ボンゴ・コンチェルト」があります。 「ブードゥー組曲」は27分07秒にも及ぶ曲で、どれもペレス・プラードの傑作と言われています。 その3大組曲ほど長い曲ではないもののペレス・プラードの野心作とされる曲が「キューバ幻想曲」です。 1956年3月7日初レコーディング、名盤「ハバナ午前3時」に収録されました。 まさに幻想的な雰囲気が漂いペレス・プラードの故郷キューバを表現しています。 この動画は私がペレス・プラード楽団のメンバーとしてジャパンツアーに参加した時のものです。(2016年、ボンゴ担当) 私は、ペレス・プラードがキューバやラテンアメリカ世界を表した野心を込めたこの作品を演奏できる喜びを噛みしめながらステージでボンゴを叩きました。とても緊張しました♫
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ペレス・プラード楽団のレパートリーには日本の曲も! 来日の際に日本の歌手と共演をしています 五木ひろしさんの「よこはま・たそがれ」のマンボバージョン!!
ペレス・プラード楽団の初来日公演は1956年10月。当時「三人娘」として人気を博した美空ひばりさん、江利チエミさん、雪村いづみさんと共演しました。 ペレス・プラード楽団は、日本の曲もレパートリーに入れており、なかでも「サクラ・サクラ」は、初来日公演から帰国した直後にレコーディングされ、「キューバン・カーニバル」というアルバムの中で発表されました。 70年代には、日本の民謡や歌謡曲を日本ビクターでレコーディングしています。 なんだか怪しげでエキゾチックな雰囲気で、ペレス・プラード特有のサウンドが炸裂しています! 日本のテレビでも多くの演奏が収録されていますが、2002年には、五木ひろしさんが司会を務めた番組に出演した際に、「よこはま・たそがれ」を演奏しています。 もちろん、歌は五木ひろしさんですよ! 今でも人気のある昭和歌謡ですが、この「よこはま・たそがれ」では、ペレス・プラード楽団の傑出したアレンジ、そして至高の演奏を楽しむことができます。 私がペレス・プラード楽団の来日公演のステージで演奏した日本の曲は「お祭りマンボ」と「青い山脈」。 ペレス・プラード楽団マニアの私は、今回「青い山脈」のレパートリーがあることを、2016年の来日時に初めて知りました。 いつも、まだ聴いた事のない音源を初めて聴くときはとてもワクワクします。新鮮な気持ちと、「そーくるかー!」という巧みなアレンジに興奮するのです。 今回は自らステージで演奏するということで興奮も倍増! 嬉しさもあり、また緊張感もあり、最高に楽しかったです!!
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熊ん蜂の飛行(バンブルビー・マンボ)
ペレス・プラードはポピュラーやジャズなど、たくさんの曲をマンボにアレンジして発表していますが、クラシック音楽もマンボにアレンジしています。 その中でもステージで大変盛り上がる曲の一つが「熊ん蜂の飛行(バンブルビー・マンボ)」です。 この曲は1898年にリムスキー・コルサコフが作曲したオペラです。 1957年、ペレス・プラードがマンボにアレンジしました。1958年発売の「王様プラード・イン・ステレオ」に収録されています。 ペレス・プラードの音楽の特徴の一つにハイ・ノート(高い音で奏でるトランペット)があるのですが、この「熊ん蜂の飛行」ではオリー・ミッチェルのカッコいいハイ・ノートが存分に楽しめます。 先日CS TBSチャンネル2で放送された「音楽の巨人たち #16 ペレス・プラード」(1963年にTBSスタジオにて撮影)でも当時ラテンアメリカでナンバー1のトランペッター、チーノがメンバーで参加し、この曲を演奏していましたが、圧巻でした!! 私がペレス・プラード楽団メンバーととして参加した2007年のメキシコ、そして2016年のジャパンツアーでは、この曲はレパートリーに入っていなかったので、とても残念でした。 ペレス・プラード楽団ジャパンツアーでは、しばらくはこの「熊ん蜂の飛行」がトリとして演奏されていましたが、最近のトリはエストレリータになっていますね。 大変盛り上がる曲ですし、人気もある曲だと思いますので、いつかまた日本公演でもこの曲を皆様にお届けすることができたら嬉しいです。
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今年はベートーベン生誕250年。マンボの王様ペレス・プラードが演奏する交響曲第5番運命をご紹介します
今年はベートーベン(1770年12月16日~1827年3月26日)生誕250年です。 マンボの王様ペレス・プラードは、いろんなジャンルの音楽をマンボにアレンジして演奏していますが、もちろんクラシック音楽もアレンジしています。 そこで今回はベートーベンの交響曲第5番運命をご紹介します。 ペレス・プラードの作曲した有名な「マンボNo.5」。ペレス・プラードは自身の最高傑作としてベートーベンにあやかりNo.5と名付けました。 それではペレス・プラードがアレンジしたマンボバージョンのベートーベン交響曲第5番運命をお楽しみください。
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ララバイ・オブ・バードランド(ボンゴ〜コンガ合戦)
ペレス・プラード楽団のジャパンツアーで大いに盛り上がる曲の一つに「ララバイ・オブ・バードランド(ボンゴ〜コンガ合戦)」があります。 この曲は、イギリス出身の盲目のジャズ・ピアニスト ジョージ・シアリングが1957年に発表したのジャズ・スタンダード・ナンバーです。 ペレス・プラードが1957年にマンボにアレンジし、1958年発売の「王様プラード・イン・ステレオ」というアルバムに収録された際に「ボンゴ・〜コンガ合戦」という副題が記されました。 その名の通り、曲の途中にはレイ・リベラのボンゴソロとモデスト・ドゥランのコンガソロが炸裂する構成になっており、白熱の演奏が楽しめます。 そして、私がボンゴ担当で参加した2016年ジャパンツアーでもこの曲を演奏しました。 2016年バージョンではパーカッション隊全員のソロを披露。コンガ〜ボンゴ〜ドラム〜ティンバレスの情熱的な演奏を皆様に楽しんでいただけたと思います。 動画は2016年ペレス・プラード楽団ジャパンツアーの「ララバイ・オブ・バードランド」です。 大きな会場で自分のソロを繰り広げられるという楽しさと、ペレス・プラードが最初に録音したバージョンに敬意を表しながら心を込めて演奏しました。 今見直すと「今度はここをこうやってみよう」と、どんどん新しいアイディアが浮かんできて、どんどん進化させていきたくなります。 ペレス・プラードの音楽を理解した上で、ペレス・プラードがレコーディングしたバージョンを基本にしつつ、おそらくペレス・プラードが好むであろう新しい奏法を生み出していくわけです。 しかも私は4才からの根っからのペレス・プラード楽団ファン。 楽しくないわけがありません。 今でも何時間もペレス・プラードの音楽を聴いて毎日の生活を楽しんでいます。 さらに進化した演奏スタイルを、ペレス・プラードファンの方に早く披露したいです。 今後、皆様に楽しんでいただける日が来ることを楽しみにしています。
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メキシコとペレス・プラード
ペレス・プラードは1940年代後半、祖国キューバからメキシコに渡りマンボで大成功を収めました。 「私の音楽を最も愛してくれる国」とメキシコについて語っています。 ペレス・プラードは、愛するメキシコの民謡もアレンジしてレコーディングをしています。 現在のペレス・プラード楽団は、数あるメキシコ民謡のアレンジの中から、それらをメドレーにしてコンサートで演奏しています。 私がペレス・プラード楽団ジャパンツアーに参加した時は「メキシカン・パーティー」というタイトルの曲でした。 「メキシカン・ハット・ダンス」というメキシコ中央部のグアダラハラの民謡に続き、「恋しいビギーナ」、そして「ソン・デ・ラ・ネグラ」のメドレーです。 動画は私がペレス・プラード楽団に参加した時の演奏です。とても美しいメキシコのメロディーですね。 マンボレータ(ダンサー)が曲を盛り上げ、異国の匂いを漂わせますね。 私がメキシコに行った時に大変お世話になったペレス・プラード楽団2代目リーダーのへスース・ガルニカ先生のことを思いながら演奏しました。 ガルニカ先生は、私が初めてペレス・プラード楽団の生のステージを見た時のリーダーで(2代目リーダー)、私を可愛がってくださり、メキシコで私をメンバーにしてくださいました。そんな愛するガルニカさんとの思い出が曲を演奏しながら頭に蘇ってきました。 できれば一緒に日本のステージに立ちたかったですが、今はガルニカ先生のご子息が3代目を引き継ぎ、縁あってご子息と日本のステージに立つことができました。天国のガルニカさんも喜んでくれていると思います。 これからもペレス・プラードやガルニカ先生が築き上げてきた素晴らしい音楽を、3代目リーダーとともに演奏し皆様の元にお届けできればと思っています。
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美空ひばりさんの「お祭りマンボ」をペレス・プラード楽団がアレンジするとこうなる!
「お祭りマンボ」が発売されたのが1952年。当時はマンボの王様と言われた「ペレス・プラード」のマンボが世界的大ブームとなり、日本でもマンボが大流行していました。 そこで日本では、マンボを取り入れたたくさんの歌謡曲が発売されました。 中でも「お祭りマンボ」は美空ひばりさんの見事な歌唱力に加え、アップテンポな親しみやすいメロディーで大ヒットを収めました。 美空ひばりさんは説明するまでもなく皆さんご存知、昭和の日本を代表する歌手です。 実は1956年、ペレス・プラードの初来日コンサート時、美空ひばりさんはペレス・プラード楽団の演奏で2曲を歌い上げています。 美空ひばりさんは、この時初めて外国のオーケストラで歌を歌ったそうですが、スペイン語と英語で生き生きと歌い上げ、ステージは大変盛り上がりました。 ペレス・プラードは日本でのステージのために「サクラ・サクラ」をはじめ、来日のたびに日本の有名な曲をマンボにアレンジして、たくさんの曲をレコーディングをしています。 現在のペレス・プラード楽団のジャパンツアーでも日本の曲が演奏されますが、その曲こそ美空ひばりさんの「お祭りマンボ」です。 これは、ペレス・プラード楽団がアレンジし演奏した映像です。 2016年私、余語丈範がペレス・プラード楽団のメンバーとしてボンゴを担当しました。 ステージでは大いに盛り上がり、私もたくさんのお客様と一緒に日本の名曲を楽しむことができました。 私は、マンボブームの時代にはまだ生まれておらず、当時の事を書いてあるコンサートパンフレットや書籍、ニュースでペレス・プラードのマンボが流行っていたことを知っているだけです。 ですが、当時の音源を聴くと多くの若い人たちがマンボに熱中していたことが伝わります。 私はペレス・プラードと美空ひばりさんの共演とマンボブームの頃に想いを募らせながら「お祭りマンボ」を演奏しました。 二人の偉大な功績を称えつつ今後もペレス・プラードのステージで皆さんと共にマンボを楽しみたいと思うばかりです。