この一週間

人工骨頭置き換え手術の術後検診。
その後、一人にしたら、鍋を焦がす。
帰宅後、玄関を開けた瞬間。すごいにおい。
コンロにまだ焦げた何かがあって、火がついていると思ったほど。
急いで台所へ行くと、きれいに洗った鍋。
何食わぬ顔の母に、腹が立ち大げんか。
それでも、母には何も刺さっていない。

母は、この数年でだいぶ変わった。
子ども返りしたよう。
デイサービスを進めた時も、以前は、あんな所にはいかないと馬鹿にしていたのに。町内の老人会に勧誘された時も、自分はまだそんな年じゃないと断っていたのに。
それなのに今、楽しそうにデイサービスに通い、次はいつだろうとカレンダーを確認している。

過去と現在の記憶がつながっていてこそ、湧き上がる感情もあるのだなと気づく。今の母を見ているとその場の感情だけで動いている。まさに鏡でこちらが怒りを示せば、機嫌が悪くなり怒る。優しくすればうれしいから母も優しくなる。自己中な理由で湧き上がる感情しかないから、相手がどう思おうと関係ない。思いやりの心はゼロ。記憶のつながりも薄いから、相手がなぜその感情になっているのかという経過を追えない。だからその時の相手の表情や言葉が含む感情だけで受け答えをする。

最近では、ドラマの筋もわかっていないようで、一話完結なうちは楽しんでみているのだが、終盤の数話を通して話の本筋の伏線が回収されていくような場面ではもうついていけない様子で、「面白くなくなったから見ない。」という。そうして、同じ場面ばかりを何度も繰り返し見るようになった。例えば、ナンバMG5のいじめられっ子が最後しっかりと断る話など、何度見ていたことか。こちらが怖くなるくらい、何か月も繰り返し見ていた。
そのほか、必殺シリーズや三匹のおっさんのような勧善懲悪のわかりやすい一話完結を好んでいた。老人の定番なのかなと思っていたが、結局、人の気持ちの揺れ動きや前後する時間軸、人生の機微にとんだ複雑な役柄などを理解できないのだ。ドラマの醍醐味の部分が、それを理解できないせいで面白くなくなってしまったのだ。

そして、人の不幸が好きになった気がする。
うすら寒い。
ドッキリ番組やドタバタコメディが好きになった。転ぶ、ぶつかる、落ちるなどが頻発するものが好きで、電気椅子やパイの罰ゲームなど、わかりやすくひどいことをされている番組を見て、ケタケタ笑うのだ。それは私に対しても同じで、ちょっとこけたり、ものにぶつかったりすると、なにやってんだと言い、大笑いする。昔は、ちょっとけがをしただけでも、心配してくれ、「なにやってんだ。」が違う意味で使われていた。心配しすぎるので報告しないことさえあったなぁと思いだした。
相手のことを思いやる気持ちがなくなったのと同時に、心配する気持ちもなくなったのかもしれない。そういえば、孫の帰りが遅くても「まだ帰ってこないのか?」とはいうが、それは確認に過ぎず、帰宅が遅いということを認識しているだけのようだ。
極め付きは、私が母と言い合いになって怒っているときに、私の怒りの表情を見て笑うことだ。正しい感情の判断がつかないのか、何なのかわからないが、こちらは馬鹿にされたように感じる。そして気味が悪く、本当に頭がおかしくなったのかと思い脳神経内科の先生に相談したら、それは当人同士で話し合ってくれと言われた。これには本当にがっくり来た。先生に分かってもらえないんだ。説明不足だったのかもしれないが、この先生にもう一度同じことを違う形で説明する気にはなれなかった。もうこの数年、怒るたびに、笑われて私は本当に疲れた。母に対する感情がコントロールできないことが多くなり、怒る場面が増えた。そうなると必然笑われる回数も増えるのだからとてもつらい。

そして私が一番いやなことは、母が自分の都合のいいように話をすり替えること。これは認知症にはよくあることらしいのだが、それがどんなにつじつまが合わないとしても、自分が正しいという帰着になるように話を持っていく。こちらは一つ一つ訂正し時系列ごとに話しなおすのだが、その数分の会話の中でさえ、最後には「だからそういったじゃない。」とさも自分が娘の間違いを正したのだということにしてしまう。話がねじれていく。私がおかしのかと思ってしまうほど自信満々に。

このままでは私は壊れるなと思いいろいろ考えていたところに、子供とも喧嘩。
このタイミングでこうなると、もう問題は私にあるとしか思えない。
母にするように、喧嘩の内容を一つひとつ納得がいくまで詰めてしまうのだが、これはもう性分なのか。やめたほうが良いのか?だけど、わかってもらえて、話し合える相手なら、とことん疑問を投げ、回答をもらうということをしたい。
そうやって話し合っているうち、私が何もかも心配しすぎなのだなと思った。
しかし、学校のことが分かっていないから、校則の抜け道が分からないのだから口出しするなという言い方はないよなと思った。

子供の自立を促すために、自由度を上げるべきだと考える。
門限などなしにして、行く先も聞くのをやめた。
夕飯のあるなしだけ教えてくれればいいことにした。
心配してもどうにかなるものではないのだなと思う。

母のことも子供のことも、あきらめて手放す時期なんだろう。
母のことは特にMCIなのだろうから、あまりまともに付き合わず、受け流していかなければなと思った。

子に対しては、手助けしてくれと言われた時には、もちろんフォローするけど、そのほかは静観するほかないのだろうなと思う。

どちらに対しても、見守ることだけはやめてはいけないんだろうけど、それも自信がなくなってきた。共依存気味なのか。
個人を尊重するのは難しい。

悲しいのか、腹立たしいのか、わからない感情が、食道から湧き上がる感じ。胸が詰まっている。

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