科目の向こうへ(ダスト・エッセイ)
10年以上前の大学一年生が書いたある文章を読んだ。彼女の高校は大学受験のために1年生のうちから文理選択をしていたと言う。早々に生徒たちは、”いい就職”のための大学受験のために、必要な科目の選択をはじめ、切り捨てられた科目には興味を持たない。それはどうなんだろうと、つらつら書いていた。
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僕は自分の中学・高校時代を思い出した。5段階評価中、全科目基本「3」、苦手な国語と社会、音楽と美術は時々「2」、少し好きだった体育と数学、英語は時々「4」だった。得意科目はなく、勉強自体がイヤイヤだった。
学校の先生や親からは、受験で使うだとか、社会で必ず役に立つとか、言われて、全科目頑張って勉強するようしつこく言われた覚えがある。当時それが、どうにもピン!とこなかった。
冒頭の彼女の文章を読んでいて、ふと思った。あの時僕は、僕の中に必要か否かで、科目をみていた。
あれから10年以上経って、いろいろな価値観や経験を持っている人たちに会うようになった。
流れ過ぎそうなことばに拘りを持つ人や、非言語的な音やモノに自己表現や癒しを求める人がいる。物事の説明を、方程式を解くようにやってみせる人や、歴史やルールを重んじる人がいる。自然の様子やきまりを生かそうとする人がいる。身体と心の繋がりをよくわかっている人、違う言語圏の人たちとも友達になろうとできる人たちがいる。
あの時勉強していた科目の中には、確かに社会で役に立つことがあり、科目の向こうには、これから出会う人たちがいた。
彼ら彼女らの言うことや思うことに、興味とある程度の理解を示し、仲良くなれたら嬉しい。
賛成できなくても、理解を努める準備ができたら嬉しい。
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あの頃よりもピン!ときた僕が、タイムスリップをして、当時の僕にこれを説明出来ても、喜ばしいことではない。
これが、僕が10年以上かけて出した暫定的答えなら、15歳の僕も、10年以上かけてそれを考えてみる必要がある。
(2024年4月11日投稿)