卒論(ダスト・エッセイ)

 仲間たちと、卒業論文の報告会をすることにした。そこには、もう卒業論文を提出して会社員をしている人もいれば、提出したばかりの学生、現在構想を練っている学生、大学院に進学した学生が入り混じる。そして、所属していたゼミも、分野も研究方法も多岐に渡り、雑多な報告会になることが予想される。


 用があって登壇できない人も含め、数人の卒業生が興味を示してくれたことを、はじめは意外に思った。



 卒業論文を書くときに、驚いたことが一つあった。散々主観的なものよりも客観的なものを求められている(かのように感じる)学生生活の中で、主観が求められた気がした。もっといえば、ゴリゴリの主観的意見が求められた気がした。


 それは、指導教員との会話と、社会学者の上野千鶴子『情報生産者になる』(ちくま新書, 2018年)を読んだことが、きっかけだった。


 地球温暖化をどうにかしなければならないという論文を書くとする。でも、本当にどうにかしなければならないのか。「それってあなたの感想ですよね」と、どっかの誰かの様に言われてしまうかもしれない。


 この自分の中に芽生えた「感想」を、他の人たちにも、確かにそうだね、と思ってもらおうとする。様々なデータを示して、ほらほら、と語りかけ、なるほど、と思わせる。


 それができれば、「あなたの感想」に留まらない。自分の切実さに、誰かがそっと歩み寄ってくれる道筋を、開くことができる。


 一人で書く論文は、ひとりにならないと書けなくて、書いているとひとりになって、ひとりでは書けなくて、書いているとひとりにならない。



 興味のあることに関するテーマを探して来いと、指導教員や先輩たちに言われてきた。が、ここで言う「興味」とは、もっと言えば、どうしても拭えない、切実なことだった。


 初めての試みで、有意義な会にできるか不安がある。とにかく、みんなの切実さに、また誰かが、歩み寄れるように、なりますように。


(2024年2月15日投稿)

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