渡辺裕『校歌斉唱!日本人が育んだ学校文化の謎』を読んで、徒然と。
残暑お見舞い申し上げます。台風7号の影響で新幹線や特急が本日運休ということで、東海地方への旅行を一日早く切り上げて帰宅したkaoriです。
今日はこの本を読みました。
須田珠生『校歌の誕生』とテーマが丸被りではないか??とドキドキしましたが、パイオニア的な研究として言及されていました。
たしかに、あの一冊でこのテーマが網羅できるわけではないだろうから、ベテランの先生がかかわることでこの分野の広がりが期待されるかもしれないと思いました。ちなみに、私は『校歌の誕生』が出版されたあとすぐに行きつけの書店に行きましたが、音楽のコーナーに見当たらずハテナ?と思ってぐるぐるまわったら教育のコーナーにあったので、なるほどそうなってしまうのかと思ったことを覚えています。というわけで、渡辺先生が『校歌斉唱!』を出されたことで、あの書店で『校歌の誕生』が音楽コーナーにも並べられたら良いなあと思う次第です。
さて、『校歌斉唱!』では主に高校の校歌が扱われています。が、自分が通っていた高校に校歌なんてあったのかな?と検索してみたらあるにはありましたが全く記憶なし。サビの部分がすこーし覚えてるかな、、?
それよりも、個人的には小中学校の校歌斉唱がキツかったように思います。というのは、私は全国転勤族ジュニアなので校歌を覚えさせられてもその地域に定住せず、つまり、校歌を覚えてもその後のコミュニティ・ソング機能や郷土愛に結び付く機能を持ちません。ただただ儀式的行事のたびに歌わされて、覚えてきたところで転校になり、また新たに覚えて儀式的行事で歌い、、。
それでもまだ私が小中学校時代は、90年代の前半期で国旗国歌法や教育基本法改正前だったので児童向けに作られた歌を歌う機会も多かったのですが、2010年代に生まれた自分の子どもを見ていると、君が代に始まり、校歌だけでなく市歌も学ぶ時間まであり、儀式的行事やら儀式ではない行事(修学旅行のバスの中など)でもせっせと歌う機会があるようで、今の公立学校の児童は大変ねえ、、と思います。だいたい今は児童が歌う合唱曲もやたら難しかったり歌詞が暗い。「気球に乗ってどこまでも」とか「未知という名の船にのり」の世代から見ると、マジメな歌詞すぎてだいじょうぶ??と思ったりします。
・・・まあそういう目線で現在を見ることは「老害」にあたるのでしょう。
それはともかく、なんとなく住む地域で決められた小中時代に「上から」与えられた校歌を歌う経験を経て、高校という、自分で選び自分で試験を突破して入学した学校の校歌を歌うというのは、それだけで愛着がわくのかもしれないとは思いました(私自身はさっぱりでしたが)。しかも、学校によっては行事によってリズムを変えたり編曲して歌うことが紹介されていたので、それは変化があって楽しいのだろうし、演奏の主導権を自分たちが持っているという点からも愛着がわくだろうなと思いました。
ただ、、、著者は最後に昨今の共学化問題を取り上げ、文化が失われることを危惧していますが、時事問題として校歌の学校文化的側面を取り上げるならば、「一円訴訟」のようなことが起きる背景に、生徒同士で校歌強制のパワハラがあったことについても触れてもらいたかったような。敗訴したから難しいですかね。
戦後の高校では学校新聞などで生徒たちが「下から」校歌に関する運動を起こした史実がいろいろと示されたけれど、「下」の中にも細かい「上下」があり、その上下関係の維持強化を正当化するための道具として校歌が利用されているかもしれない点について考えることは、今後読者の中から発展させるべき課題なのかもしれないですね。
ジェンダーの観点からの研究紹介はとても面白かったです。
「旧高等女学校から共学化した新制高校で旧校歌がそのまま歌われるようになった例はほとんどないのに対し、旧制中学校から共学化した新制高校では旧校歌が温存された事例がかなり認められ、両者の間に非対称性があるというのです」(158頁)
つまり、今の日本で結婚したら女性も男性の苗字を名のるほうが多いように、学校も、共学化したら男子校の文化が残りがちという実態があるそうです。すごくありそう、、、詳しくは以下の本の8章にあるそうです。読まねば。
ということで、夏の読書感想、徒然なるままにでした。
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