終戦の日に考える『命』のバトン
noteを書き始めて4回目の夏。
被爆三世のわたしは感じるのです。
「伝えなくては」と。
8/6に放送されたNHKスペシャル『原爆 いのちの塔』
広島日赤病院は、爆心地から1.5キロだったにも関わらず、コンクリート造りだった為倒壊を免れました。
自らも被爆しながらも医師や看護師が医療活動を続けた記録を元に作られた番組でした。
兵隊さんだったうちのじいちゃんは日赤病院に入院していました。
8/6の朝もきっとおしゃべり好きなじいちゃんは、看護師さんや周りの人と楽しくおしゃべりしていた、じいちゃんの言い方で言えば「おおものを言うていた」に違いない。。。
幼い頃、じいちゃんの無い方の腕の付け根を、小さなお手々でなでなでしながら
「じいちゃん痛い?」
ふと気になって、座っていたじいちゃんの顔をのぞき込み、尋ねたことがありました。
「大丈夫。大丈夫。カッコロは優しい、優しいのぉ」
じいちゃんは笑顔。垂れた眉毛がますます垂れて。わたしの頭を撫で返してくれたじいちゃんの満面の笑み。
大きくなってから。
「被爆者は身体から放射能が出ている」と忌み嫌われ、いわれの無い差別を受けていた時代があったと知りました。
大きくなってから。
「『原爆』(じいちゃんのこと)はええのう。恩給がもらえてから」と、とても意地悪そうに話す大人を見たことがありました。
戦後、被爆者としてじいちゃんがどれだけ辛い想いをしてきたことか。
じいちゃんは原爆の話をすることはほとんどありませんでした。
じいちゃんは腕が無いことについても一切弱音を吐いたこともありませんでした。
じいちゃんは誰かのことを悪く言うこともありませんでした。
例え、相手から悪口を言われようとも
「放っときゃええ。知らんやつは放っときゃええんよのぉ」と言い飛ばしていたじいちゃん。
たくさんの亡骸を山ほど見たじいちゃん。
ただただ、生き延びさせてもらえたことに感謝し。
亡くなった方を偲び、それ以上は望んではいけない!とばかりに。。。
自分の人生に、不平不満を微塵も口に出さなかったじいちゃんの『強さ』
NHKの番組では当時の日赤病院の院長や医師、看護師の写真や証言や記録が紹介されていました。
まさしくあの日8/6、あの人達に、あの場所で、じいちゃんは命を繋げていただいたんだ!!
テレビを見ながら、何とも言えない感謝の涙が次から次へと込み上げて来る。
繋げてもらった『わたし』の命の尊さ。
日赤病院でじいちゃんは原爆で壊死した腕を
「このまま置いておけば死んでしまう!」
とロウソクの灯1つで、麻酔もなくのこぎりで切り落としてもらった。
十分な薬もなく傷口は塞がらない。
お医者さんから
「○○さん、もうあんたは助からん。せめて故郷で死にんさい」
と帰郷を進められ、貧血で朦朧としながら命からがら瀬戸内海を船で自宅まで帰って来たそうだ。
番組で紹介されていた日赤病院の当時の医療活動記録に、じいちゃんのことは何と書かれていたのだろうか。
お医者さん、看護師さんが「もうダメだろう」と、それでも見送ってくれたじいちゃんの背中。
その命が生き延びて、今この『わたし』に繋がっている。
経験したことのない未曾有宇の状況の中。
自らも被爆しながらも医師として看護者として、ケアし続けてくれた医療従事者の皆さんのおかげで、どれだけのたくさんの命が『今』も繋がり続けていることか!!何とありがたく尊い。
次の日の新聞。
甲子園球場で黙祷をしたと言う内容の記事に息子くんのコメントが載っていた。
「小さい頃に聞いた当時の話を思い出しながら、亡くなった方をしのんだ。野球ができることに感謝して思い切りプレーしたい」
わたしの中にある『命』のバトンはちゃんと息子くん達にも繋がっていた!
何とも言えない想いが込み上げる。
「ありがとう」をわたしが言っているような、じいちゃんからわたしが言われているような。何とも言えない安堵のようなあたたかい何かが込み上げる。
大切な仲間と大好きな野球ができる平和な世の中。
この平和な幸せが、どうかどうか続いていきますように。
どうかどうか。
幸せなこの日々が。
彼らの未来にも。
あなたの未来にも。
どうかどうか繋がっていきますように・・・。
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