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女子栄養大学・香川靖雄教授が語る「女性の健康と葉酸」

女性が健康に生きるために必要な栄養素の一つが「葉酸」。妊娠計画中から妊娠初期の場合は食事に加え栄養補助食品から400μg/日の葉酸摂取が必要とされていますが(食事摂取基準2020年版より)、実は日本の女性の実際の葉酸摂取量は、その基準には遠く及ばないことがわかっています。

そこで今回は、葉酸研究の第一人者であり、埼玉県坂戸市の葉酸プロジェクトを率いる女子栄養大学の香川靖雄教授をお招きし、「女性の健康と葉酸」についてのお話を伺いました。

日本の現代における葉酸強化政策とは

川端:1970年代以降の数々の介入研究により、胎児の先天異常の一つである神経管閉鎖障害のリスク低減には、妊娠前からの十分な葉酸摂取が必要であることが明らかになっています。アメリカやカナダでは、1998年より穀物などへの葉酸添加義務化によって、同障害の発症率は低下していて、現在では、世界86ヵ国で食品への葉酸添加政策が行われているそうです。

一方、日本では、2000年に厚生省(現厚生労働省)から葉酸摂取に関する通達が出されましたが、諸外国のような葉酸強化は実施されておらず、主要な神経管閉鎖障害の一つである二分脊椎の発生率は、通達が出された以降も減少傾向がみられません。

香川先生は、日本と諸外国の葉酸強化政策の違いについて、どのようにお考えですか?

香川先生:私は日本も穀類に葉酸を強化するべきだと思っています。穀類に葉酸添加をしている86ヵ国の中には最貧国が多いのですが強化の費用は極めて少なく、予防で得られる医療費削減は極めて多いからです。厚生労働省の担当者にもお願いし国立健康・栄養研究所に行ってセミナーを行って詳細に必要性を強調したのですが、今の厚生労働省は福祉から労働問題まで極めて多忙で、新しい事業へのゆとりがないのです。

川端:忙しくて時間がない……何とも悲しいですね。ただ、そんなことも言っていられない状況ではないでしょうか。厚生労働省が2月28日に公表した2022年の出生数は80万人を割り込み、統計開始以来最少となっていますから(人口動態統計速報)、少子化問題はかなり深刻化しています。1人でも多く健康な赤ちゃんが出産できるように支援することもまた、少子化対策のひとつであると考えると、「忙しくて時間がない」という状況ではなくなってきていると思うのです。一民間企業が行政に働きかける方法として、どんな方法があると思いますか?

香川先生:穀類の葉酸強化はすぐにできることではありません。そのため、民間企業から特に低所得層の方々に葉酸――できればビタミンB6、B12を添えたものを無料で配布する施策を検討し、行政にはそのための補助金の申請をするのが一番だと思います。

川端:令和元年の国民・健康栄養調査結果を見ると、20歳~29歳女性の葉酸摂取量は必要量が240μgであるのに対し、226μg/日です。一方、食事から480μg/日、妊娠計画中から妊娠初期の場合は食事に加え栄養補助食品から400μg/日の葉酸摂取が必要とされている妊婦の葉酸摂取量は243μg/日にとどまっています。つまり、2000年より厚生労働省から葉酸摂取に関する通達が出されているものの、妊婦が葉酸摂取を強化できている現状はないのです。

政策の不十分さを感じていますが、香川先生は、この現状についてどのようにお考えですか?

香川先生:WHOが定めて多くの国が採用している葉酸の推奨量は、成人女性で400μg、妊婦で600μg。川端先生も述べた、日本の妊婦の国民健康栄養調査からわかっている「妊婦の葉酸摂取量243±79μg」と日本の「20-29歳の女性の226±129μg」は少なすぎます。

引用:厚生労働省. 日本人の食事摂取基準(2020年版)」策定検討会報告書をもとに作成

厚生労働省が推奨している400μgの葉酸サプリメントを摂取している妊婦はわずか18%です。実際に不足している事は二分脊椎症等の障害児の頻度は日本に限り最近5年平均で1万分娩当たり8.4人と大きい事から明白です(近藤厚生他. 葉酸による神経管閉鎖障害の予防 : 発生率, リスク因子, 葉酸サプリメントの摂取, 行政への要望. 日本周産期・新生児医学会雑誌 57 (1) 8-18, 2021.)。特に低所得層では葉酸摂取量が極めて少ないことを本学の恩田教授が発表しています。

さらに、米国の葉酸摂取量は男性573±8.6μg、女性439±10.2μgで、日本とは大きな差があります。

川端:過去に実施した自社の調査では、60%の方が葉酸サプリメントを利用されていたので、ママの休食のお客さまはまだ意識が高い方々なのかもしれないですね。18%という数字をお聞きすると、如何に普及啓発が足りていないかということがよくわかります。

また、WHO基準で考えると、日本の現状はかなり深刻であると感じます。とくに所得格差による健康格差が生まれないよう、社会としての取り組みの必要性を企業からも発信していきつつ、ママの休食が世の中のためにできることを、改めて模索していきたいと思います。

香川先生:ぜひ企業からも、特に低所得層の方々を啓発してください。

坂戸市が「婚姻届け提出時」に葉酸教育を行う理由

川端:葉酸の摂取強化に取り組んでいてかつ成果を上げている唯一の自治体、それが、香川先生がプロジェクトリーダーを務める埼玉県坂戸市の葉酸プロジェクトかと思います。

私は、健康づくりは必ずしも個人にすべての責任を押し付けてはいけないと考えており、自治体あるいは地域や企業という組織単位で、社会の責任としても、もっと積極的に個人の意識や行動を促すアプローチを行うべきと考えています。つまり、単なる普及啓発活動にとどまらず、健康にアクセスしやすい生活動線の設計や制度改革など、自然と健康行動が増加する仕組み・仕掛けづくりを社会主導で進めていくべきと考えています。

香川先生:坂戸市は婚姻届けとともに葉酸の教育や葉酸米の普及をします。それは妊娠がわかったときには、葉酸が不足していれば既に二分脊椎症が起こってしまっているからです。

川端:葉酸について知る・学ぶタイミングについては、私も常々感じる課題のひとつです。神経系は受精後17日ほどで形成が始まり、神経管については受精後28日頃(妊娠6週頃)で閉鎖すると聞きますから、妊娠してから行動したのでは遅い、ということですね。坂戸市は「婚姻届けと同時に葉酸の教育がはじまる」ということですから、妊娠をきっかけに教育がはじまる自治体よりは早い方なのかもしれません。

ちなみに、本プロジェクトの中で、先生がもっとも苦労したことはありますか?

香川先生:坂戸市民は約10万人ですが、このプロジェクトで実際に葉酸の遺伝子の検査を受け、詳しい栄養調査と遺伝子対応の指導を受けられる人数は1年で約100人です。このプロジェクトが始まったのが2006年ですから、17年をかけて市民への啓発は進んだと言えるでしょう。ですが、市民に広く検査を受けてもらい、効果を挙げるのはなかなか難しいのです。

川端:より多くの方に丁寧な支援を行うのはそう簡単なことではないですね。

葉酸の適切な摂取について

川端:葉酸摂取について考える際は、その「効率」について検討することはとても重要です。この効率という言葉には、ヒトの体内における利用効率の話、そして食べ物から葉酸を取り入れる際の摂取効率の話があります。

香川先生の研究では、葉酸の体内での利用効率は人によって異なり、たとえば同じ量の葉酸を摂っていても血中葉酸濃度に差が出るという、遺伝子多型に関する記述が見受けられます。

葉酸不足になりやすい遺伝子を持つ人はおよそ15%と、諸外国と比べると高い傾向にあるとのことですが、このような個体差を加味すると、非妊娠時や妊娠中はどのくらいの量の葉酸摂取が望ましいといえるのでしょうか?

香川先生:WHOが定めて多くの国が採用している葉酸の推奨量は成人女性で400μg、妊婦で600μg。この数値があれば遺伝子の個体差を十分に補えるため、個体差に関わらず安心できます。

川端:食事摂取基準の推奨量ではなく、WHOの推奨量を目安として葉酸摂取を心がける方が、日本人の遺伝的特性を加味した場合においては最適ということですね。そうなると、食事だけで補うのはより一層困難なので、葉酸添加食品の活用は不可欠かもしれないですね。

また、自分は人よりも葉酸を多く摂ったほうが良いタイプだということを簡単に見抜く方法はあるのでしょうか?

香川先生:健康診断のときに「血清ホモシステイン値」を測ってもらい、6μモル/L以下なら問題ありません。遺伝子の多型、正確にはメチレンテトラヒドロ葉酸還元酵素のTT型なら高い値になります。遺伝子検査もインターネットで行うことができます。

川端:いいですね。健康診断のときに、ホモシステインの血清濃度を測定してもらうことで一次スクリーニングができるのであれば、企業でも比較的簡単に導入できます。その結果、基準値以下となった場合は、遺伝子検査を受けて多型を調べてみる…という方法方法はよさそうです。すでにこのような取り組みが実施されている日本の企業や自治体の例はあるのでしょうか?

MYCODE社のサイトを見ると、心疾患・動脈硬化の指標(ホモシステイン値)については「MTHFR(メチレンテトラヒドロ葉酸還元酵素)」を解析していることがわかりますね。他の遺伝子検査会社でも「葉酸代謝遺伝子検査」といった名前で、同様の解析を行っているところは複数ありそうです。これなら、誰でも簡単に、自分の遺伝的特性を把握することができますね。

香川先生:このように個人の自己責任と費用で遺伝子多型を調べることはDTC(direct to consumer)と呼ばれて普及しつつあります。医療機関で遺伝子を調べる場合には個人のプライバシーと了解を得るために署名捺印の同意書が必要で、坂戸葉酸プロジェクトの場合もそのようにお願いしています。

川端:広まってきているのですね。

妊娠期を機に「健康」について考えるようになる女性は多いです。妊娠はある意味、健康に目覚める一つの“きっかけ”だと思っています。だからこそ、弊社の「ママの休食」のようなサービスを求めてくださる方が多々いるのですが、つわりで思うように食事がとれなかったり、台所に立つのもつらく自炊ができなかったり、という方がいらっしゃるのも事実です。そんな方々に向けて、葉酸を効率よく摂取する方法を一つ挙げるとすれば、香川先生はどんな方法をご提案されますか?

香川先生:女子栄養大学で開発した「葉酸米」を購入して普通の米に少し混ぜて食べることをおすすめします。葉酸の効果を挙げるためにビタミンB6とB12も一緒に入れてあります。

川端:穀類を変えることができれば、高頻度で葉酸を意識した食事がとれるようになるので、本当に便利ですよね。私もまだつわりがひどくなかったときに、自社商品とセットで活用させてもらっていました。

日本は葉酸添加食品がまだまだ少ないですから、ママの休食でもその点を危惧して、葉酸添加パスタやスープを開発しています。もっと同様のアイテムが増えて、選択肢が豊富になることがとても大事なので、生活者が無理なく不足しがちな栄養素が摂取できる商品づくりを、より多くの企業で実践してほしいと思っています。

香川先生と言えば、栄養学を量や質だけでなく、タイミングの観点からも紐解く「時間栄養学」の研究でも有名ですが、葉酸の代謝効率が上がる時間などはないのでしょうか?同じ葉酸の摂取でも、夕食よりも朝食でとる方がよいなどのお話がもしあれば、お聞きしたいです。

香川先生:葉酸は水溶性のビタミンですから、毎日摂取するのが好ましいのですが、1日の中で良いタイミングというのはありません。

川端:葉酸摂取において重要なのは、まずは必要十分な量を確保すること。そして、食事由来の葉酸摂取にとどまらず、食品やサプリメントに添加された生体利用効率のよい「モノグルタミン酸型葉酸」での摂取も行うことですね。

サプリメントの摂取といえば、葉酸のとりすぎを懸念して、妊娠初期をすぎると葉酸サプリメントの摂取をやめる人も多いですよね。

香川先生:妊娠中の貧血は葉酸不足が関与する場合が非常に多いのです。また、先述の通り、統計的に見ると日本人の葉酸摂取量は必要量を大きく下回っており、基準値の半分程度という実態があります。妊娠期間通して葉酸をしっかりとるように意識した方が良いでしょう。

川端:葉酸は造血ビタミンの一つですし、妊娠期間中の貧血対策には鉄だけでなく葉酸も重要ですね。血流量が増える妊娠中は葉酸を大量に消費するので、私としても、葉酸は、妊娠期間中継続して摂取する意味があると思っています。

葉酸の継続摂取の重要性について

川端:葉酸摂取の強化は、妊婦に限らず、どの世代でも重要だと考えています。香川先生の文献にも、動脈硬化や認知症、骨粗しょう症といった病気を引き起こす一要因であるホモシステインは、十分な葉酸摂取によって、その血中濃度を下げることが可能であるとの記述があります。

そのため、妊娠を機に高まった健康意識が、出産後も継続され、葉酸を積極的にとる生活が続くことを期待したいのですが、妊娠期から授乳期に移行する際に、健康的な食事パターンの遵守率が減少するといった報告も見られます(Lee YQ, et al. Tracking of Maternal Diet from Pregnancy to Postpregnancy: A Systematic Review of Observational Studies. Curr Dev Nutr. 2020 Aug; 4(8): nzaa118.)。その背景には、出産後の子育てと仕事、家事の両立が大変であるといった現実的な課題もあるようです。

生涯を通してより継続的な葉酸摂取を実現するために、企業や自治体が支援できることは何であると、香川先生は考えますか?


香川先生:具体的には諸外国の様に穀類葉酸強化に代わって「葉酸米」を普及することでしょう。すでに多くの産科病院では「葉酸米」を使用しています。もちろん女子栄養大学の学生食堂でも毎日提供しています。

川端:女子栄養大学は学食でも提供されているのですか!それはすごい。妊娠前からの葉酸摂取の普及啓発のひとつですね。

葉酸米のような便利なアイテムが世の中にあることを知らない人が多いですから、できるだけ早いタイミングでの「知るきっかけ」をどう作るか、どう設計するか、ということが一つ大きなテーマになりますね。生活者が意識せずとも自然と情報が入ってくるような設計、たとえば、女子栄養大学のような学食での提供、会社の社食での提供、婚姻届けのタイミングでの自治体からの提供などが増えることを願っています。

香川先生:葉酸米を使用するレストランは坂戸市では女子栄養大学だけではありません。また産科の医院でもよく使われていますので一般に是非普及したいと思っています。

川端:私たちも、葉酸米を含めた葉酸添加食品普及啓発活動に、より一層力を入れていきたいと思います。本日はありがとうございました。

香川先生:少子高齢化に対処するためぜひ、皆さまに日本人に不足している葉酸の摂取量を増やして、多くの疾患を予防し、健全な子供たちを育てましょう。


香川靖雄(かがわやすお)
1932年東京都生まれ。東京大学医学部医学科卒業、聖路加国際病院、東大医学部助手、信州大学医学部教授、米国コーネル大学客員教授、自治医科大学教授、女子栄養大学大学院教授を経て、自治医科大学名誉教授、女子栄養大学副学長。日本医師会医学賞受賞・紫綬褒章受賞・瑞宝中授章叙勲。専門は生化学・分子生物学・人体栄養学

著書:あなたの健康寿命は「葉酸」で延ばせる - 脳梗塞、認知症を遠ざける最強ビタミン -(ワニブックスPLUS新書)、時間栄養学(女子栄養大学出版部)、ゲノムビタミン学:遺伝子対応栄養教育の基礎(建帛社)

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