見出し画像

「水与水神」|第二章 黄河之水|第二節 河神祭祀

第一節 夏民族的水神(祖神)系譜
序章と前節は、こちら。

第二節 河神祭祀

黄河沿岸から西に向けて発展した殷民族の、伊水・洛水進出の折、伊洛・黄河の水を支配していた夏民族との衝突は、必然であった。殷夏戦争は、黄河とその支流と祭祀権の争いであり、河川を支配する権利の争奪戦であった。白川静先生の考察では、当時黄河とその支流の各民族にはそれぞれに、洪水神話、祭祀の水神、河を祭る儀式があり、前節に述べた夏民族の祖神顓頊、羌族の水神共工、姫姓民族(周民族)の祖神黄帝など、民族毎に祭祀を行っていたとされる。

<竹書紀年>には、「洛伯用与河伯憑夷斗」とあり、洛伯が落水の神であり、黄河の水神冯夷斗憑との争い、落水と黄河の混流した事実のほかに、古代の洛水一帯の部族と黄河一帯の部族の間の闘争の歴史を反映したものである。<楚辞・天問>では、夷羿(い・い)のエピソードとして、「帝降夷羿﹐革孽夏民…」西に進み、洛水の支配権を奪取し、黄河に近いところまで侵攻したことを反映している。<ト辞>では「高祖河」とよばれた殷人が黄河を自らの祖神として祀る事例もある。古代、河を祭るのに、牛や馬、圭璧と呼ばれる玉器や女子を生贄としてささげた。<史記・封禅書>の「牲牛犊牛」は子牛を河神への生贄とすることで、<漢書・王尊伝>では東郡太守の王尊が白馬を河に沈めたとある。<史記・秦本紀>における、秦の二世が四頭の白馬を涇水の神にささげた記載等から、牛馬が祭河儀礼の犠牲となる流れが出来たとみられる。牛馬を用いて河川を祭ることは、牛馬と農耕と水の三者の相互関係に由来するもので、このような祭儀は、世界のさまざまな民族の間で広範囲にわたり見られるものである。

周の「望祭西渎于西郊」において、河神は五嶽(古代中国で崇拝された五つの霊山)と同じく最高神とされ、秦が天下を統一してからは、河川を祭るための専門司祭を設けられ、華山から西日河を以て、晋の地で祭祀を行った。<穆天子伝>には「天子西征、驚行至宇陽紆之山、河伯無夷之 . 所都居、是惟河宗氏……」の記載もある。晋の文公は玉を河に投げ祀り、澹台子(子羽)が河を渡ると、河伯が千金の玉を奪おうとする。子羽は「子羽左掺璧,右操剑,击鲛皆死。既渡,三投璧于河伯,河伯跃而归之,子羽毁而去。(左で玉を奪い、右で剣を操り、撃った蛇は皆死に、川を渡ると、河伯に玉を三度投げ、河伯は飛んで戻ってきたが、子羽が玉をすべて壊した」とある。秦の始皇帝が亡くなると、黄河の神は、素車白馬(葬式で使う馬車)に乗り、華陰(陝西省渭南市)において、始皇帝が渡河の折、28年間沈めてきた玉を返却したとされる。これらは、珪璧(天子が授ける玉)玉器が河川に祭る献上品であったことを示す例である。玉を以て河を祭るのは、古代中国人の玉器信仰によるものであろう。玉は、古代信仰における不死の仙薬にもなり、黄帝は岩山の玉を食して龍になり天に昇るなどした。玉は、また天地鬼神の食べ物でもあり、また、山川神鬼への贈り物として、祭祀に用いられるものでもあった。<山海経・南山経>には「其中多白. 玉、是有玉膏、其原沸沸湯湯、黄帝是食是饗……」等と記されている。

上述したように、牛馬、玉を用いて河神を祭るほかにも、人間を河祭にささげることは、中国に古くからある。<史記・六国年表>では、秦霊公八年「初以君主妻河」とあり、<索隠>「謂初以年取他女為君子、君主犹公主也」とある。その実、人を河に祭る習俗は秦に始まったものではなく、殷・商の時代初期、<ト辞>の中では、女子を河神に妻として献上する例があり、人を河に娶らせるのは一種の巫術であったともいえる。<漢書・王導伝>では、「太守王恃守沈白馬圭璧祭河。使巫策視、請以身填金堤、王導以身填河」として、太守が白馬を沈め、巫者に策を立てさせ、身を以て堤を築き、王導が身を以て河を鎮め、水を止め、死後に民が河侯祠をつくったと書かれている。唐代郭子儀は河を鎮める儀式に、河が氾濫を止めるベく神に祈ると「洪水を止めるには、女を妻として奉げよ」と言われ、河川が元の流れに戻ると、娘は一日も病むことなく亡くなり、子易は彼女の骨を寺に彫らせた。これらは、河に人を奉げて祭った記録として、残る風景である。

巫術儀礼を経、女が河に投じられ、水神の妻として献上される、こういった巫術信仰は、世界のさまざまな民族にみられるもので、古代の多くの民族には、女を河の魚、蛇などの水神に献じなければ、水害で人々が壊滅させられたり、泉水が枯渇し、水が飲めなくなってしまうと信じられていた。

東アフリカのアキク族は、毎年、村の少女を数人河に投じ、巫者が村人に小屋をつくるよう命じ、巫者が河神に代わって少女との結婚を成立させた。モルディブ群島では、毎月少女を海辺の神殿に置き、水の怪物の妻として献じるが、二日目の朝には、少女は処女を失い、殿内で死んでしまう。東インド諸島のブル島では、生贄を迫られた少女の父親が、娘の代わりに花嫁衣裳をつけて河に入り、水神である「鰐」に嫁いだ。これらは、各民族における同型の巫術祭儀で、同じように、中国にも河が妻を娶る「河伯娶婦」の故事がある。

<史記・滑稽列伝>には「魏文侯時、西門豹為鄴令。豹往到鄴、會長老、問之民所疾苦。長老曰:苦為河伯娶婦、以故貧(魏の文候の時代、西門豹を鄴に任命した。西門豹は鄴に着任すると、土地の長老たちに会い、民の苦しみを問うた。長老は、河伯娶婦(河伯の嫁とり)が民を苦しめ、それゆえ鄴は貧しい、と答えた)」とある。当時、巫者が神との結婚の執成しに、毎年、二、三十万の費用を農民から取り立て、女子を川辺の神殿に無理矢理集めるようなことを行っていた。<水経注>十巻には、河伯娶婦と西門豹がその祀りをやめさせたことが記されている。また、同書三十二巻には秦代成都の両河一帯でも河伯娶婦が発生したと書かれている。

「江神歲取童女二人為婦(川の神が二人の処女を妻とする)」は、古代中国では、女子を黄河等の水にささげるばかりではなく、西南地区の長江諸水にも同様の習俗があったことを示している。内容は、先の河伯娶婦と西門豹の故事とは異なるものであるが、俗悪な慣習に立ち向かうというところで、両者は典型的な例であるといえよう。

また、黄河の河神について、最も詳しく書かれ、よく知られているのは<楚辞・九歌>における<河神>である。<九歌・河伯>の一章では、物語の経緯などが書かれている。学者の多くは、水神として祀られた河伯の宗教歌舞は、元は楚の地の民間口頭伝承、創作であったものを、屈原が検証或いは改定したものとみている。

<九歌・河伯>にみる河伯は下記である。

①與女遊兮九河  ②衝風起兮橫波。
③乘水車兮荷蓋  ④駕兩龍兮驂螭。
⓹登崑崙兮四望  ⑥心飛揚兮浩蕩。
⑦日將暮兮悵忘歸 ⑧惟極浦兮寤懷。
⑨魚鱗屋兮龍堂  ⑩紫貝闕兮朱宮。
⑪靈何為兮水中  ⑫乘白黿兮逐文魚。
⑬與女遊兮河之渚 ⑭流澌紛兮將來下。
⑮子交手兮東行  ⑯送美人兮南浦。
⑰波滔滔兮來迎  ⑱魚鱗鱗兮媵予。

<九歌・河伯>が一体何を表すのか。カギは、文中の「女」「子」「美人」等の呼称が誰を指しているのか、というところにある。歴来の解釈では、水神河伯の自称「美人」も河伯自ら或いは屈原が自己言及したものであるとされる。<河伯>一章の諸問題は別の機会に譲るとして、ここでは、中国古代の水神祭における問題として、<九歌>に詠まれた河伯娶婦の巫術祭儀について述べる。

先の①-⑧は河伯の自述であり、そこにある「女」は河伯の迎えた妻であるとわかる。⑨-⑱は水に投じられた女(河伯の妻)への歌ではないかという解釈とするならば、この歌は男巫(河伯)と女巫(河伯に献じられた女)が対になって唄う祭祀の歌という可能性がある。

河伯は、風に乗り波を割いて、屋根付きの水車で妻を迎え、また妻を娶るには九河で彼女をあそばせ黄河の源流にのぼらねばならぬと言ったことから、河伯の故郷が崑崙である。この歌のなかで、水の中での結婚を控えた妻は、河伯の住まいが豪華な竜宮であるのだとしても、なぜ、水中で暮らしているのか、自分たちと同じように陸上に住まうことができないのか、と問うている。白竜に乗り、魚と遊んでも、流れが急に早くなってしまったら自分はどうすればよいのか。河伯が自分を伴い水に入れば、彼ら(巫者や司祭などの地方長官ら)も南浦で私を水に投じ、この波の後をおいかけてくることでしょう、と言った。

<楚辞・九歌・河伯>は、古代楚の地で、河神の祭祀で女性が犠牲となってきたことを反映したものと見ることができ、また、それが典型的な「河伯娶妻」の故事と理解することが出来よう。

(「水与水神」P34-40)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?