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「水与水神」|第二章 黄河之水|第一節 夏民族的水神(祖神)系譜

第二章 黄河之水

<抄訳>
中国青海省 巴顔喀拉山(バヤンカラ山脈)より、山東省利津県にかけて流れる、長さ4600数キロメートルの黄河は、中国歴史文化の主脈であり、黄河中流域の伊、渭、汾、洛水などで中国古代の民族、王権が興り、伊水や洛水を中心に「夏」が建立された。黄河岸辺の鄭州と安陽では、姬(=姫)姓族が商を建て、陜西省の渭水では、姫姓族が周を建てた。中原地帯の氏族は、さまざまな王朝を打ち立て、黄河文明として多種多彩な特色を呈し、それぞれに黄河の水を祀り、信仰した。夏民族は、鯀、禹などを信仰し、そのはじまりは、一種の、魚や蛇の形をした河神、水神を祀るものであった。

黄河流域の黄色の土地には、新興の民族と政権とが崛起し、氏族の盛衰や王権の交代が繰り返されるなかで、民族と文化がたえず合わさり、吸収され融合し合い、黄河両岸で各民族が発展を遂げ、やがて漢民族と漢族文化を形成することになった。

黄河、黄河、黄土高原、黄種民族、始祖黄帝、この黄色の取り合わせが、いにしえより現在に至るまでの、文化と民族の伝承、自称「龍的伝人(龍の子孫)」による龍神信仰を成してきたものである。


第一節 夏民族的水神(祖神)系譜

ユーフラテス川のエンキ(Ea)は、もとは「肥沃の土地の泉水の王」を指し、神格化の原型は魚、人格化されたのちは水神エンキとして、魚の皮を着た神、或いは、人の首に魚のからだと魚の尾を持つものとされ、天体には、うお座に属するものとされる。旧約イザヤ記にみるダゴン(Dagan)は、形状が人の顔、手足に魚の身体で、西ヨーロッパの水神Dagonであり、バビロニアのオアンネスでもある。インドの創造神、大梵天も水神で、色黒、魚の形で、中国の黒帝顓頊とも類似し、古代神話でマヌ(manu)が小魚(水神)を助け、洪水に見舞われたマヌを恩に報いた小魚が助け、万物が消滅したなかで、唯一生き残ったマヌが人類の始祖となった。イギリス領東アフリカの阿基庫龙人は河の中の水蛇の神で、何年かおきに、女子をその妻として嫁がせた。インドネシア ブル島の人々は鰐の大群がやってきた際に、鰐を水神として祀り、村中の女性を妻として水に放り入れるなどした。

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世界各国の神話の中で、水神はいつも、海、湖、河の中の魚、蛇、或いは、魚や蛇が姿を変えた竜神として現れる。人々の信仰する水神は、討伐と犠牲の精神を示すもので、多くの創世神話において、英雄が龍や大蛇を倒すような故事がみられ、古代民族の治水を隠喩するものとして理解され、人々が水神の討伐を通して再生の契機を得たものとみられる。水神の蛇や魚、龍になることは、通常、神話における、破壊と死の象徴である。犠牲は、安寧を願うためのものであり、そのため、あまたの水神祭祀が行われている。以上の、各民族の水神信仰と祭祀の事例から、中国古代の水神、特に、黄河における水神の在り方を考えてみたい。

1954年秋、西安で発見された半坡遺跡(仰韶文化に属する氏族集落遺跡)に、中国古代河神の姿を見ることが出来る。出土した彩陶(彩文土器)には、人面に魚の身体の描かれた鉢もあり、夏系民族の始祖神話には水神が関係しているとわかる。夏民族は黄河中流におこり、甘粛流域から黄河東岸、山東省にかけて、彩陶土器文化圏となっている。夏民族は、ごく早い時期に黄河に堤防を築くことに成功した民族であり、<国語>では、鯀(こん)は「初めに城を築いたもの」と記され、治水の歴史が反映されている。夏系文化の彩陶は、赤褐色の土に、黒色の色彩で描かれた土器であり、仰韶と半坡は、彩陶文化における代表的な遺跡である。また、夏系民族の始祖神話から、夏民族が祀る始祖が、すべて水神の性格をそなえたものとわかる。<史記・夏本紀>には、夏民族の系譜が次のように示されている。

― 名曰文命。禹之父曰鯀,鯀之父曰帝顓頊,顓頊之父曰昌意,昌意之父曰黃帝。禹者,黃帝之玄孫而帝顓頊之孫也 ―

これにより、「黄帝ー昌意ー顓頊ー鯀ー禹」という系譜がわかる。このような夏系始祖の系譜詳細は、別の場所にゆずるとして、<大戴礼記・五帝徳>と同じように、<古本竹書紀年>にも「顓頊産伯鯀、是維若陽」、<墨子・尚賢>の中でも「昔者伯鯀、帝之元子」とあり、元子は長子、帝は黒帝顓頊を指す。夏民族の始祖神 顓頊(せんぎょく)、伯鯀、大禹は、いずれも魚や蛇の姿をした水神で、<山海経・大荒西経>の顓頊については

― 有互人之国……有魚偏枯,名曰魚婦。顓頊死即复蘇。風道北来,天及大水泉,蛇乃化為魚,是為魚婦。顓頊死即复蘇。 ―

などと書かれている。

顓頊本人は死んで偏枯魚として復活するが、その魚は、北から来た風の中で、蛇から魚を変えたものとされる。偏枯魚の由来は蛇であり、「死んで蘇生する」というのは、死んだ蛇が形を変えて魚になったものをいう。顓頊の子は鯀で、名前はもともと「大魚」の意味である。

鯀(こん)と鯤(こん)の音は近しく、<詩経・商頌・長発>では、鯀は夏時代には「昆吾」と呼ばれていた。鯀は死後、神のところで羽淵の「黄龍」となり、水に入り、魚になったという。羽淵(うえん)とは、光の届かない場所であり、太陽が見えない幽冥、また日の落ちた冥界である。また羽山(うざん)には鯀の廟があり、鯀を黄河の九神として、定期的に祭祀が行われる。

― 尧命夏鯀治水,九載无績。鯀自沉于羽渊,化為玄魚,時揚振須鱗,横修波之上,見者謂為河精…… 

玄魚は鯀の本体で、この玄魚(鯀)は、河神として、祭祀の対象である。河精(水神)は大禹治水の故事に出現し、<緯書・尚書中候>でも、「臣觀河伯、面長人首魚身、出水日、吾河精也(禹は河伯と、顔が長く、人の首に魚の身体をもち、日の出に、河精となる)」とある。もし、この記載と<捨遺記>の鯀が玄魚であるとするなら、我々は、黄河水神の河伯は、即ち、河精であり、一種の魚で、のちに、半人半漁の水神になったものということもできよう。夏民族の河神祭祀は、彼らの祖神たる鯀に捧げるものである。河伯は、大禹の父である鯀の死後に水神になったことから、<戸子>において、河伯が大禹の治水地図を与え、その後、入淵の故事がうまれたとわかる。また、鯀の死後、大禹がうまれたことは、<山海経>の記載などからも、古代神話として広く知られている。「鯀腹生禹」神話は<楚辞・天問><海内経><初学記>等にも記され、鯀の腹を開けると禹が出てきた、死んで3年経っても腐らず、黄龍になった、等、さまざまである。

ー略ー

仰韶文化の彩陶等から、黄河流域に、夏民族の信奉のあとをみることができる。顓頊・鯀・禹は、魚蛇龍の水神の神聖をもつものとしてあがめられてきたものであり、夏民族は、水神を祀り、帝の系譜に重ねながら、水神を祖神として成立させたのである。

(「水神与水神」p28-34)

次節は、「河童」!?のお話。


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