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「水与水神」|第三節 魚与月亮

第三節「魚と月」

<抄訳>

神話と詩にはメタファーが潜む。神話学者E・H・Meyerは、神話を構成する二大要素は、比喩と隠喩といった。神話では何かの現象を説明する際通常は物体、動物、擬人化されたものを以て示す、神話の精神構造は、神話の隠喩のもとに成り立ち、まさに、人の肉体的構造が細胞により成立していることと同じである。

神話と詩にみるメタファーには、主に、次の3つがある。
①神話では人や動物の特性や環境を自然現象を以て示し、詩では自然現象を人の生活に落とし込んで語る
②神話内の隠喩は複雑で詩のそれより結びつきが強い
③神話は信仰、隠喩そのものが目的で、詩には芸術的装飾があり目的は別にある

詩人は、青々した湖畔の草を借りて想いを表現したり、雨によるに鳴く鳥に望郷の哀しみを表したり、日暮れの山辺の雪に世の無常を表し、春の蚕に煩悩を示したりする。詩の表現には、直喩、暗喩もある。直喩がふえると、通常、詩的説明性と叙述性の効果を増す。隠喩は、詩的な象徴性と深い芸術的効果をもたらす。本節では、魚と月に関する詩と神話に関し、詩と神話のメタファーについて述べる。

詩中においては、雲、雨、水も性のメタファーとされる。<飲馬長城窟行>の鯉は「手紙」を示す(古代では手紙を魚の形に形成した)。魚の上下に回遊するさまが、手紙を想起させ、また、魚は愛情、性の象徴として、人の思いを代弁してきた。<板橋>の詩は、魚と芙蓉に男女の離別、<枯魚過河泣>は、枯魚(水を得られない魚)を愛を得られない男性とたとえ、失恋した者の悲歌をうたい、<白頭吟>は、魚と水に愛情のうつくしさをうたった。

神話の中で、魚が性的メタファーとされることは、世界各国でみられる。A.Morali Daninos は「性関係の歴史」の中で、原始キリスト教、西アジア、古代エジプト、古代ギリシアでも性の象徴とされ、古代人が太陽や樹木を父性、月や潮を母性の象徴としたことと同じような道理である、と語る。

<山海経>での陵魚は、人面手足魚身、つまり、顔と手足が人、体が魚であるとされ、陵魚は、のちに、流す涙が真珠に変わる鮫人(美人魚)の、という人魚伝説になったとされる。「滄海月明珠有泪(李義山詩)」として、詩人は、鮫人が夜に泣くこと、涙が真珠に変わる伝説を詠んだことは、詩的メタファーであろう。

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(人面魚やん…)

筆者個人の考察として、陵魚は「冬死而夏生(冬に死んで夏に生きる)」とされる柢山の魚であるとみる。<山海経>にある柢山は、氐人国、互人国、鮒魚の山のある地方で、氐人国は建木の西にあり、国中の人々は、人面で魚のからだで足を持たない(互人国も同じ)、鮒魚の山は、顓頊帝(せんぎょく)の埋葬された地で、互人国の炎帝の孫灵契がいて、灵契は空を自由にわたる人魚であった。顓頊のいた釘霊国(北方の幽冥地獄の地)にある炎帝の孫伯陵は、呉権の妻と同じく、神話学者の認識として、伯陵は神話上の人物であるとされ、筆者自身は、伯陵がこの陵魚であったのではとみている。

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(氐人国の人。髪型…)

ー略ー 

神話の中で魚は「冬死夏生」「蛇乃化為魚」と書かれ、それは、中国古代において、魚には、再生力や変化力のある神聖な生き物とされていたことによる。

神話学者の研究において、顓頊、鯀(こん、禹の父)、禹の神話の結論はさまざまであるが、水神の系統であるということは一致している。日本神話学者の森安太郎氏は顓頊、鯀、禹のルーツは、古代人の、魚或いは蛇などの水棲動物への信仰によるものとみる。顓頊、鯀、禹の神話の始まりは、いずれも魚と関係の深い水からはじまる。

古代の再生と不死の信仰は、性と結びついている。この結びつきは、魚や月、蛇、水を神話のメタファーとして生み、それが詩的メタファーに至るとき、性はロマンティックな愛情へと発展してきた。後世の詩人が、魚を詩中の性や愛情のメタファーとするとき、そこに、古の神話的意味といったものが必ずしも存在するわけではない。

月もまた、不死や再生の神聖性を持つものとして、神話の中では、女性、農耕、生命の象徴として描かれてきた。中国で最もよく知られている月の神話「嫦娥奔月(じょうがほうげつ)」において、嫦娥が月に渡ることは、霊薬、不死、変形、再生の隠喩であり、詩人の中には、嫦娥を寂寞の象徴として描くものもある(李義山<嫦娥詩>、李白<把酒問月>他)。

詩の中には、嫦娥は不死の薬を盗み、ヒキガエルに姿を変えられ、月の中に兎がいること、青い鳥の神話(西王母の遣いであること)なども含まれるが、月に兎の伝説は、中国神話ではなく、インドが起源で、サンスクリット語で月はSARA、兎もSARAと呼ばれ、中国より先にインドに月兎伝説があったものと推察される。青い鳥は、古代神話の中で、崑崙山に住む、不死の仙薬をもつ西王母の使者であるとされ、それを盗んで飲んだ嫦娥が、月へ行きヒキガエルに化身したとある。嫦娥奔月の神話が「西王母が不死薬を持つ」と「月に嫦娥がいる」という二つの原始神話が結びついて出来たことで、神話の中に、月に不死と再生のエネルギーが具わっている、という故事が生まれたと考えられよう。嫦娥は中国原始の月神で、これは<山海経>にもみることができる。

中国の道家の多くは、桂を不死の霊薬として用い、仙人となった。月の不死と再生思想は、後の世に仙郷文学と仙女の故事を生み出した。仙郷文学での仙人は天帝や天神とは異なり、平凡な人間が一定の条件(仙薬、仙術)により、一種の超越した存在になるかたちをとる。仙女の故事は、永遠に離れることのない男女が、夫婦になる前に、その愛に試練がもたらされることに則るが、この種の故事には不死と再生の特性により、いかなる時代においても、耳を傾けるものに幸福な誘惑感をもたらすものである。

嫦娥奔月の神話は唐人の詩の中で流動的に変化し、原始の月の神話の隠喩としての意義を持つものではなくなり、また、地上における女性の寂しさの象徴として、月の中の桂伝説は、詩の中で不死と再生の意味をもつものとなり、たとえば、李白が「欲斫月中桂、持為寒者薪」と詠んだのように、月の桂は、詩中の芸術性を高める表現となり、李白が「救世(乱れた世を救うため)」の目的として、選んだ手段となったのである。

次節は、黄泉の水。


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