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「水与水神」|第二章 黄河之水|第四節 近世以降的黄河水神

第四節 近世以降的黄河水神

<抄訳>

中華民国以前、中国歴代皇帝は、河を祭り、封じるための儀典を有した。夏系民族は、夏系民族は祭祀してきた水神を自らの祖神に、殷系民族は河と高祖を合わせて高祖河として、周系民族は四瀆(中国の四大河)の長として祀り、秦始皇帝は河を祭るための役職を設けた。唐の玄宗は河を灵源公として祀り、宋では灵源王、明太祖は河から王号を外し四瀆大河の神とし、秦では四大王の神として河を祀った。清の順治帝(三代目)は河を封じ金竜四大王の神として、歴代皇帝は河に詔を発し、それぞれに、その呼び名をあらたにしたが、これらの封印は雪だるま式に大きくなり、清代末期の光緒皇帝代には黄河の水神は「灵佑襄济显恵贊順护国普利昭应孚澤綏普化宣仁保誠感黄大王」というどちゃくそ長い封号になった。

本節では、各時代における水神を整理し、その変遷をみる。河神は魚蛇などの動物から、神人同体の河伯へ、やがて神仙河伯となるが、唐宋代の終わりには、河伯の名は途絶えてしまう。

宋真宗天禧四年、河祭に関する勅令が出され「増龍神及尾宿諸星在天河之内(龍の神と尾に宿る星たちは、天の川にある)」として、龍王が、正式に河神として祀られるようになった。これ以降、河や湖など水のある所は、すべて龍神、もしくは龍王により支配されるところとなり、諸天龍王、四海龍王、五方龍王などと、竜王の属類は増えて行った。宋の太祖は唐代の五龍の祀りを継承し、五龍祠を建てた。徽宗大観二年、皇帝は龍に勅命を出し、青龍を応仁王、赤龍を嘉澤王、黄龍を孚應王、白龍を義済王、黒龍を霊澤王、とした。水のある地方には、龍王と龍王廟があり、このように龍王の台頭する環境においては、水神河伯は、(龍王に)譲位するしかなかった。

近世宋代以降、黄河の水神は、群龍割拠の局面となり、龍神がやたらと多くなり、代表的なものが、河神、金龍四大王、黄大王で、大王、或いは将軍として、そのほとんどが化け物、もしくは、死んで神になったものばかりである。金龍四大王は、姓を「謝」、名を「緒」と言い、第四番目として、四大王と名付けられた。黄大王は、名を「守才」、字を「英杰」と言い、姓が「黄」であることから、黄河の神として封じられた。王将軍は、名を「仁福」、字を「竹林」という江蘇吴県人で、清同治六年に落水して亡くなるが、治水に成功したからなのか、治水により死んだのか、死後、黄河の神として封じられたものである。金龍四大謝緒は、朱元璋を助けた元兵士で、功を立てたことにより祀られたとされる。謝緒が河神になったのは、天帝の命に拠るもので、このようにしてつくられた(人造)神話の背景には、元が滅んで明が興り、朱元璋が明王の政治宣伝の命を受けて行ったものと推察できる。

このほかにも、河神黄大王は、<癸巳存稿>13巻<黄大王伝>に記されているが、全文が非常に長いのでここでは割愛する。大王伝奇は<池北偶談>にも「黄大王者、河南某県人、生為河神、有妻子……」などとして登場する。

しかし、死んだ謝緒と黄守常は人で、金龍四大王或いは黄大王などの河神となって、人々は相まみえることが出来なくなり、雲が雨を降らす様に龍の群れを思い描き、想像の中で神秘的な存在として生きたが、現実の生活の中に息づくものではなくなった。黄河一帯に住まう民は、はるか昔からある水神信仰を思い返し、河神の祭祀と信仰を、彼らが実際に目にすることのできる水蛇に重ね、水中と岸辺それぞれに生息した蛇を、金龍四大王或いは黄大王などの水神の化身とみなし、それは、前述した河伯が魚蛇と同一視された現象と、同じことであるといえよう。

蛇を水神とする例は、全世界あらゆる地にあり、ここでは、2つの簡単な記事を紹介する。黄河の他に、蛇を水神とする事実があり、<夢渓筆談>には「熙寧中、王師南征、有軍杖数十船、泛江而南、自离真州、即有小蛇登船……」として、宋代の小龍の故事が記載されている。また宋代周輝<清波雑志>には狐山の水神として「輝至小狐山、見幡脚花瓶中、小青蛇盤結挙首……」などとある。

黄河一帯の民衆は、川辺で「大王」或いは「将軍」に遭遇すると、地方長官に報告せねばならず、長官は、巫者を伴い、それを迎えた。大王への接待方法は、祝辞を唱えながら、蛇を放って祀るもので、毎年の祭祀には、神に演劇を奉納し、大王と将軍を喜ばせたという。

いにしえの黄河水神は魚蛇から、のちに、神秘、神聖化されて龍となり、神話における水神は、魚蛇と龍とが混同されてきた。中原民族は、数千年にわたり、黄河の神を信仰し、祭祀してきたが、龍君や龍王、巨龍というものの始まりは、おそらく一匹の小蛇なのである。

(「水与水上」P45-51)


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