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山田寺の仏頭に恋をして

白鳳の貴公子と呼ぶにはあまりにも血にまみれた権力争いの果てに、いまも首だけになって、遥か遠くを見つめてらっしゃる美しい方。

25年前の古美研で興福寺を訪ねた時は、宝物館はもっと半屋外みたいな感じで、山田寺の仏頭は入口近くだったか順路の途中だったか、ぞんざいに柵に囲まれてどんっと置いてあったイメージ、、その当時だって国宝だったんだからそんな訳はないだろうけど、、先に行く集団を気にかけつつ、なんじゃこりゃ、と思って立ち止まった記憶。かっこいいと思ったかどうかは覚えておらず、どちらかというと可笑しいと感じた気がするけど、大きな丸い頭部にその場を離れられないような一目惚れをしたのはたしかにこの時だったと思う。

いまはすっかり近寄り難くなって、元いたであろう丈六坐像の位置にお顔がある。下から見上げるとけっこう厳しい顔をしていて、その硬さが謎めいていて、ますます気にかかる。久々に調べ直してみたところ石川麻呂の話が検索にひっかかった。首だけの仏様のリアリティがぞっと増していく。あの謎めいた表情にはもっといろいろな伏線があるのではないかと気づく。まだ追えないけれど。

【ざっくり年表】
山田寺薬師如来の鋳造678年
開眼685年
石川麻呂の死649年
天武天皇の在位673-686年
持統天皇の在位690-697年(645年生まれ)
薬師寺薬師三尊像の開眼697年


旧山田寺仏頭の表情と頭部の量感について

興福寺が所蔵する山田寺の仏頭は、その名称の通り頭部のみが現存する仏像である。1967年に「銅造仏頭(旧山田寺講堂本尊)」として国宝に指定され、現在は「銅造仏頭(旧東金堂本尊)」という名称で興福寺境内の国宝館に展示されている。もともとは丈六坐像の薬師如来で、685年、持統天皇の時代に三尊像として作られたが、長い歴史のなかで頭部だけとなり、やがて忘れ去られていたものが、1937年の寺の改修工事の際に発見されたという(註1)。その頭部の片側は大きく歪み、頭頂部や耳の下部が欠損している状態であるが、仏頭を主役に据えた展覧会が開かれたり、原寸の複製が巡回したり、「白鳳の貴公子」(註2)と形容されるほどに人気が高い。この仏像(仏頭)の若々しさ、貴公子と言わしめる淡麗な顔立ちに対する評判に異論はないが、その表情となると形容が難しい。また空間に自立した全方位的な頭部の表現は、それ以前の仏像表現とは画するものがある。

高さ98.3 cm、ブロンズ製の頭部は、首が太く、球体のようにボリュームのある丸い形をしている。表面に螺髪がなく、頭頂部の肉髻が失われているため、球体感が増しているのかもしれない。また中が空洞である鋳造という構造ゆえか、躯体がなく頭部だけに注意がいくためか、頭部全体が内部から膨らんでいるような溌剌とした印象を受ける。後方部の膨らみの頂点は上方にあり、顔のボリュームと呼応し、側面から見た際、美しく見えるフォルムとなっている。正面から側面まで、形を見ながら成形したことは明らかで、崖から彫り出されるために、正面以外からの視点が存在しない石窟の仏像とは、まったく意識を異にする表現であるといえる。背後にも空間が広がるようなこのボリュームに対する感覚はどこから生まれたのだろうか。

横顔を見ると、顔の丸いラインに沿って鼻の筋もゆったりと曲線的に伸び、その曲線は上方では左右対称に両眉へと続き、ゆったりと円弧を描いている。唇は小さめだが厚く、上唇と下唇の間や口の端が深く内部に向かって彫り込まれている。そのため頬や唇の膨らみが強調され、また頬のもっとも高い部分が目の下の位置にあるため、仏像の顔を若々しい印象を作っているものと思われる。対して切長の目、小さく三角に整い筋の通った鼻は、幼なくなり過ぎない、青年のような印象をこの像にもたらしているようだ。

さて細部から離れて、仏像として拝顔する位置から眺めてみるとどうだろうか。照明や展示台の高さによっては微笑んでいるように見える可能性もあるが、その視線は遥か遠くを見据えており、下から拝むと目が合わない。どこか硬さを秘めており、厳しさ、あるいは世間の様々な事象を超越したような表情を読み取ることもできる。

仏頭が制作された時代は、中国の初唐時代(618-)にあたる。南北朝時代(439-589)の影響を受けた飛鳥仏に続いて、白鳳時代に影響を与えたのは初唐の仏像であるとされている(註3)。遣隋使、遣唐使がそれまでに持ち帰っていたもの、中国で目にしてきたもののなかに、参考とされた仏像があるはずであるが、石仏や小振りな金銅仏の事例ばかりではっきりしない。あるいは、小さな仏像を手のひらで確かめながら拡大したために、このような量感が生まれたとも考えられるかもしれない。飛鳥時代の《釈迦三尊像》(623年)が銅造であるため、当時の日本に高い鋳造技術があったことを考えることは難しくないが、止利仏師の作風とはまったく異なっており、大化改新以後、仏像原型を作る技術ではなく、金属を鋳造する技術だけが、職人たちによって継承されたのか、その場合、仏頭の原型は誰が作ったのか、謎が多い。材質は異なるが、ほぼ同時期の當麻寺の《塑造弥勒菩薩坐像》(681年)は、サイズ感、頭部のかたち、顔の表現も、非常に近しい印象を受ける。仏頭の原型が塑像であった可能性も高いため、仏頭の源流を探るにあたり、この二つの仏像をあわせて考えてみる余地もあるのではないだろうか。

註1「銅造仏頭(興福寺東金堂旧本尊)と東金堂十二神将像」金子啓明『興福寺創建1300年記念 国宝 興福寺仏頭展』2013年9月
註2 20数年前には白鳳か天平かという議論があったように記憶しているが、現在は薬師寺のウェブサイトにはっきり白鳳仏と記載されいてる。
註3 その造形的源流をめぐっては中国の初唐時代の影響のみならず、それを遡る南北朝時代後半の北周の仏像や、朝鮮半島の新羅仏の影響も指摘されいるとのこと。

【参考文献】 金子典正編『アジアの芸術史 造形編I 中国の美術と工芸』藝術学舎 2013年 東京藝術大学美術学部編『近畿地方を中心とする古美術見学手引』東京藝術大学美術学部 1997年 松田誠一郎「飛鳥・奈良I(白鳳)時代」辻惟雄監修『カラー版 日本美術史』美術出版社 1997年第16版


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