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京都の芸術文化に見る石の利用について

刀鍛冶や仏師に比べて、石工の仕事、石造物の需要、石の利用は明治維新以前も以後もあまり変わらなかったもののひとつかもしれないとふと思った。重さゆえの扱いにくさはあるものの、石は木と同様に私たちの生活に身近な素材であり、現代においても日本各地に採石場があり、輸入も含めて石材を加工販売する石材店があるほか、石彫と呼ばれる分野で活躍する作家も多くいる。

京都というと、木造の寺社に銅造または木造の仏像などが思い浮かぶが、蛇塚古墳や化野念仏寺、龍安寺の石庭など、石造の文化も古来から受け継がれてきた。石造物は、石器、石塔、石仏、墓、灯籠、狛犬、城壁など用途が多岐に渡り、またその物がどこで作られたか、石材の産地はどこかなどを考えると、現在の石材産業とのつながりも見えてくるようで興味深い。

天塚古墳、蛇塚古墳(石室)
いずれも、嵯峨野地域に作られた6~7世紀の古墳。とくに蛇塚古墳は、後円部の石室は全長17メートルを超え、奈良の石舞台古墳に匹敵する規模である。京都盆地の北縁に位置し、石の材質は堆積岩と推定されているため、産地は特定されていないが、古代の災害がもたらした土石流により、その先端に流れ出た巨石を利用して作られたと考えるのが自然であろう。辺り一帯に200基近い古墳跡が発見されている。

木津惣墓五輪塔(石塔)
惣墓となると、この惣墓が有名らしく、よく言及されていた。場所は京都のはずれ。京都から奈良に抜ける街道沿いにある木津川市に、高さ3メートルを超える巨大な五輪塔が現存する。正応5年(1292年)の銘が残る郷墓(惣墓)のモニュメント的石塔で、材質は花崗岩である。鎌倉時代後半から室町時代にかけては、郷墓(惣墓)と呼ばれるものが各地に作られるようになってくる。複数の村々が共同で管理する墓地で、平安時代のように風葬状態は衛生的にもよくないということで埋め墓と詣り墓に分かれていくなかで、生まれた風習である。墓の下に遺体を埋めるということは行われていない。つまり惣墓(石塔)は、祈りの対象として作られたといえる。

化野念仏寺(石仏、石塔、塔門)
嵯峨野にある浄土宗の寺院。空海(平安時代初期)が風葬されていた遺骸を埋葬し、五智山如来寺を建立したのがはじまりとされる。ウェブサイトなどでは、鎌倉時代初期に法然上人が念仏道場を開き念仏寺となったとあるが、観光地として有名なわりに、化野念仏寺に関する論文など、資料がほとんど見つけられなかった。
*西村公朝さんの石仏が並ぶのは、さらに山よりの愛宕念仏寺

化野は、蓮台野、鳥辺野と並ぶ古来からの葬送の地である。寺に奉られた約8000の石仏や石塔(五輪塔)は、一帯に葬られた人々の墓で、特に戦国期以降は、一人一墓の考えが広まり、庶民でも墓を作っていたようである。長い年月の間に無縁仏となり散乱していたものを集め、現在の姿となった。ただしこのような風景は、この寺に限らず京都各地で見られるという。

各々の石の材質は不明であるが、全体の成形や、細部の表現、文字の線刻などを考えると、石仏・石塔の制作を職業とする石工が庶民の暮らしの側にいたということになるだろう。また石仏・石塔のサイズも人が持ち運びできる(おそらくは石工の作業場から墓場まで)重量を考慮しているように見える。江戸時代になると墓に対する考え方も変わっていくので、墓のかたちはより大きく精巧な形へと変わっていくことになる。

ちなみに、化野念仏寺には、インドの世界遺産サーンチーの遺跡を模したドーム状の仏舎利塔とトーラナと呼ばれる鳥居に似た塔門がある。日本の仏塔は釈迦の遺骨を収める墓であるインドのストゥーパを基軸として様々に発展してきたもので、宇治十三重石塔などの多層塔や、中国由来の経塔を祖形とした宝篋印塔なども、その一種であり、仏にとどまらない、生きとし生けるものの供養塔として定着した。

龍安寺方丈庭園(石庭)
枯山水に白砂(石)が用いられるようになった歴史を探すのに、どこをあたってよいのやら分からなかったので、かの有名な龍安寺の石庭について少し。

龍安寺方丈庭園の作庭年代は定かではないが、石庭は鎌倉時代に禅宗の普及とともに始まった庭の様式である。水を使わない枯山水の手法で、石と白砂と草木のみで、山川の自然や宇宙を表現する。供養の意味合いから離れつつも、世俗とは一線を画する聖性を宿した石の利用として、画期的な発想であったと思う。石の聖性は、墓や枯山水とともに強化されたのだろうか。

石庭に用いられる白砂は、比叡山から大文字山の間を占める花崗岩が風化してマサ土化したものである。地帯を流れる白川によって運ばれ、川底にたまった石の粒またはさらに風化した砂が、白砂(白川砂)と呼ばれる。龍安寺の石庭をはじめ、多くの寺院や神社で用いられ、北白川の特産品となった。現在は採取が禁止されているため、代用品が白砂として流通している。

ざっくりとまとめると・・・
古墳時代は権力の象徴として、仏教普及後は個人を弔う供養のシンボルとして、鎌倉時代以降は場の聖性を高める手段として、石が様々に用いられる様子が見えてきた。江戸時代以降は、流通経路の発展とともに、各地の石が商品として墓や灯籠などに利用されるようになっていく。

参考文献:
竜安寺の池庭の遺構と石庭の作庭年代について 中根金作 造園雑誌 / 21 巻 (1957-1958)4 号
太秦・嵯峨野の古道 リーフレット京都 No.38(1992年2月)(財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
日本仏教文化の特徴と変遷の軌跡 牛黎氵壽 佛教文化学会紀要 第23号 平成26年11月
土石流がもたらしたブランド石材:御影石(六甲花崗岩)先山徹 日本地質学会第128年学術大会 2021

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白川筋

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