悲しき熱帯魚 2章
男の名は、井沢龍太郎といった。家が裕福な商いを行っていたので、金には幼いころから不自由したことがなかった。仲間に連れられて、早い時期から遊郭通いをするようになった。
財力があるだけでなく龍太郎は、いつも流行の柄をぞろりと着流しており、歌舞伎役者なら必ず看板役者になれるぐらいの人の目を引くような男前だった。すっきりとした鼻筋に切れ長の目。龍太郎が通ると、振り返る女たちは多かった。
龍太郎は、つどつど玉ノ井ののれんをくぐるが、座敷で酒を飲んだり、女たちと話をしたりするだけで、他の男たちのように女と床を共にすることが無かった。
女に興味が無いと話題になったことがあったが、どこからともなく流れてくる噂はそうではなかった。自分の家に奉公する女中を孕ませたことがあるらしいという噂もあった。
そんな吉野と龍太郎だったが、座敷を共にしたことはなかった。龍太郎が吉野を今まで呼ばなかったからだ。しかし、ある日、初めて吉野を龍太郎は、指名することにした。そのことを店のものが吉野に伝えると、普通は何事も動じない女が、珍しくうっすらと頬を桜色に染めた。
当日、吉野のお付きをしている千代は、朝からてんてこ舞いだった。いつもより早く吉野は目を覚まし、湛然に入浴をした。部屋に一番大好きなお香を焚きつけ、化粧を施した。千代はそんな気合いの入った吉野を見るのは初めてだった。
日課となっている吉野の金魚鉢の掃除をして、熱帯魚の餌やりを終わると、吉野のすぐ後ろに座った。いつでも、吉野の手伝いができるように準備する。
吉野は、鏡に向かい紅を引き、その様子を千代は喰いいるように見つめた。そんな千代にはっと気が付くと、吉野はほっこりに微笑み、千代を自分の横に呼んだ。まだ幼い子にも吉野の妖艶さは、ひしひしと伝わってきていた。
吉野は、千代を自分の方に向かせると、ゆっくりと紅筆をその小さき唇の上で滑らせた。塗り終わると、二人で鏡台に向かった。鏡の中には、薫るように華やぐ吉野と、先ほどまではおぼっこい子だったのに、紅ひとつでどきりとする女の部分を感じさせる千代が、仲良く並んでいる。
吉野は、その千代の姿を見て、彼女の将来を鑑みた。運良くなるべく早い時期に、この鳥籠から飛び立って欲しいと思う。この器量があれば、変な男に引っかからなければ大丈夫だろう。
「千代、この紅、あげるよ」
「本当に? 嬉しい」
千代は、自分でも驚くぐらい綺麗にしてくれる魔法の道具をもらい、嬉くなった。
「それに、私がここを出て行くときは、この化粧道具はみんな千代にあげるね」
その言葉を聞くと、今度は複雑な顔をした。そして、ぼつりと「吉野姐さんは、もうすぐ出て行くの?」と呟いた。千代の大きな瞳が、水っぽくなっている。瞬きをすれば、大粒の涙が今にも落ちそうだ。
「ここは、ずっと居るところではないのよ、千代。あなたも分かっていると思うけど。あなたが、私の年頃になったときには、同じようにここを出ていけるようにして欲しいわ」
「いつ出て行くの?」
「それは、私一人では、決められないことなのよ。いい旦那さんが迎えに来てくれればいいんだけどね」
「吉野姐さんは、いい旦那さまが見つかったのね」
どうだろう、と吉野は思う。旦那さまはずっと前から見つかっているが、その人が自分に気づいてくれなければ、どうにもならない。吉野は、「さあ、どうかしらね」と言って千代の艶のある髪を優しく撫でた。
吉野にとっては今夜、それがわかることになるはずだった。「さあさあ、準備をしなきゃね」と、吉野はけいきをつけるように言うと、千代は素直に頷いた。