【連載】運命の扉 宿命の旋律 #37
Serenade - 小夜曲 -
8月に入って最初の土曜日に、稜央が萌花の元にやってきた。
萌花は家で待ちきれずに東京駅まで迎えに行った。
改札の向こうから手を振る稜央は、真夏でも黒いシャツ黒いパンツ姿だ。
1ヶ月半の滞在分のバックパックも黒。
元々細い身体なのに益々華奢に見えたし、妙に大人っぽく感じられて、萌花は眩しかった。
改札を抜けてくると真っ先に固く抱き締め合い、人混みも気にせずキスをした。
「会いたかったよ、稜央くん」
「俺も…やっとこの日が来たよ」
2人は郊外の萌花のマンションがある電車に乗った。その間も萌花は真夏だというのにぴったりと稜央にくっついたままだった。
「暑苦しいかな?」
「そんなことないよ」
稜央も左腕を萌花の腰に回して抱き寄せる。
「折角の夏休みなのにインターンシップ、大変じゃないか? 俺なんかのために…本当になんて言ったら良いか。萌花には嫌な思いたくさんさせているのに」
「ううん、会えない分、稜央くんの役に立てることができてると思えるのが一番嬉しいことなの。だから気にしないで。それに社会人の準備としてもなかなかいい経験だよ」
稜央は萌花の頭を愛おしそうに撫でた。
「野島さんのことも…社内で何度か見かけたよ。まだ直接話すことはできていないのだけど…」
「うん…焦らないでな。本当にありがとう…。で、萌花は奴を見てどう思った?」
「あまり近い距離で見かけてないけど…やっぱりすごく似てるなって思った。お父さんにしては若く見えるけど、親子ですって言っても歳の離れた兄弟ですって言っても、あぁそうでしょうね、って思う」
「そうか…」
稜央はいよいよ手が届くところまで来た、と実感した。
萌花の家に滞在する1ヶ月半の間に、どうやってコンタクトを取るか、じっくり練るつもりだった。
「…どうするつもりなの?」
「まだ…何も決めてない」
「野島さんも…すごく驚くでしょうね…」
稜央は萌花が野島に気遣いを見せたのが少し気に入らなかった。
いいんだよ、アイツのことなんか。どう思ったっていいんだ。
むしろ最大限の衝撃を与えたいくらいだ。
* * *
萌花のマンションに着くと、2人は真っ先にベッドに飛び込んだ。服を脱ぐのももどかしいほど、2人は激しく求め合った。
離ればなれだった時間を埋めるように。
始めはこらえがちだった萌花の喘ぎ声が我慢できなくなって長く漏れ出すと、稜央はますます狂おしい気持ちが込み上げ、萌花の肌に噛みついたりした。
萌花が短い叫び声を挙げる。
動物だな、と稜央は思う。
それでもいい。
愛し合って満たされること、更には生きていることをこんなに痛感することって、他にあるか?
これ程まで身体とはぴったりするのかと思うくらい、萌花の内壁は温かくしっとりと稜央を包み、緩急を付けて締め付けてくる。
稜央は萌花以外の女の子は知らなかったが、これ以上は考えられなかった。
稜央の腰がグライドする度に、萌花は切なそうに目を細め、甘い声を上げる。
「稜央くん…あたし今…稜央くんの赤ちゃんなら産んでみたいって、本気で思った…」
「萌花…俺も…同じこと思った」
そんな話をする。
ふと稜央の頭の中によぎるのは、ちょうど今の自分達と同じ二十歳の夏に母は自分を身籠り、父親はそのまま母と自分を捨てた、ということだった。
ちょうど今の自分と同い年、という所が引っかかった。
「萌花、でも俺たちまだ学生だからな…」
「うん、もちろん…。でもそんな風に心から思った事って今までなかったから…」
「そうだな…もし大学卒業してちゃんと働くようになって、それでも気持ちが変わらなかったら…」
「変わらなかったら…?
「その時は、そうしよう。俺たち家族になるんだ」
「稜央くん…!」
萌花は稜央を強く抱き締めた。
稜央は絶対に自分の父親のようにはならない、萌花に母のような思いはさせない、萌花を愛して幸せにするんだ。子供だって、これでもかというくらい愛するんだ。ちゃんと働いてたくさん稼いで、ピアノでも何でも習わせてやる、と誓った。
* * *
何度も交わった後はお互い少し眠ってしまい、稜央が先に目を覚ますと、窓の外はもう暗かった。
通りを走る車の音がさざ波のように届く。
萌花はまだ稜央の腕枕で静かな寝息を立てている。
ほんの少しだけ開いた唇がたまらなくかわいらしかった。
ずっと見つめていたい衝動と、激しくキスをしたい衝動が同時に襲う。
稜央はそのどちらも我慢して、仰向けになり天井を見上げた。
カーテンの隙間から通りを走る車の灯りが横切っていく。
“なんて落ち着く場所なんだろう”
心から稜央はそう感じた。まるで海の底にいるみたいだ、と。
散々抱き合った肉体疲労さえ心地良かった。
目を閉じる。
ただただ萌花を愛して、2人きりの時間を過ごせるだけで良かったのだ、本当は。
怒りや恨みを抱えることは疲れる。
けれど。と、稜央は目を開く。
目的がなければ、今こうしていないのも確かだろうと思う。
桜子が謝る姿、以前見せた涙顔などがよぎり、やはり許せない、と新たな気持になる。
陰で泣いていた母を、何も知らずにのうのうと生きてきたあの男は、許せない、と。
* * *
萌花がインターンシップに出かけている間、稜央も何もしないわけには行かないので、10時~15時で短期契約のバイトを入れた。
夕方、萌花の会社の近くで彼女と待ち合わせて、近くの喫茶店で目的の人物が出てくるのを待つ。
待っている間、萌花がアイスカフェオレを飲みながら言った。
「野島さん…、先月子供が生まれたみたい。お祝いがどうのって、他の人が話しているのが聞こえて」
「子供…生まれたばかり…」
つまり自分の腹違いの兄弟。片親が同じということでは陽菜と同じということだ。
稜央は複雑な気持ちになった。
アイツの子供たちは何の不自由もなく幸せに暮らすんだろう。
陽菜は…結局自分の父親も離れていってしまった。数ヶ月に1度は会っているらしいが、詳しくはわからない。
陽菜も幼いながら気を遣うのか母親に口止めされているのか、父の話はほとんどしない。
俺の家は普通じゃない。
アイツは…普通の…それよりもっと上かもしれない。
若いくせに次長ときた。そこそこの収入も得て、子供も産まれ…。
怒りがふつふつと沸き上がった。
そして小1時間ほどが経過した時。
「あ、出てきたよ!」
萌花が窓の外を見て小さく叫んだ。
会社が入るビルの正面口から、颯爽と出てくる野島遼太郎を見た。
稜央は窓に張り付かんばかりにその姿を目で追った。
写真以外で彼を見るのは、初めてだったから。
遼太郎は少し厳しい表情で、唇を一文字に結んでいる。
ダークグレイのスーツを着こなし、背筋が良く堂々とした風格。品の良い革のショルダーを斜めがけにしていた。
やがてその後姿は、夕暮れの人混みに紛れて行った。
「稜央くん…」
萌花が不安げに声をかける。
稜央は涙を流していた。
萌花が差し出したハンカチにハッと我に帰る。
「俺…なんで泣いてるんだ?」
だって、そりゃそうだよ。
萌花は心の中で思った。
あなたのお父さんなんだから。
「稜央くん、今夜は美味しいもの食べよ。少し遅くなっちゃうけど、私、作るから」
萌花は稜央の隣に座り、背中をさすりながら言った。
稜央はハンカチに顔を埋め、声を殺して泣き続けた。
#38へつづく