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【連載短編】猫と、ありふれた孤独 #1


ひどく長く、短い冬の日。


❄❄❄


12月のベルリンは重たい雲にすっぽりと覆われ、太陽にお目にかかることはなかなか出来ない。乾いた冷ややかな空気が長いこと垂れ込める。

特にこの年は低温注意報が毎日のように発令され、日中でも0度に届かない日が多い。そのくせ降雪は少なく、刺すような冷たい風に街行く人々の眉間は一層の皺を寄せていた。


勤めている会社が本格的に海外に拠点を構える事になり、ここベルリンはその一つだった。俺は部長待遇でそこの所長となる予定で、来年ないし再来年には家族を連れて引っ越してくることになっている。その準備も兼ねて3ヶ月あまり、単身で滞在していた。

滞在中はほぼ徒歩通勤のためこの寒さから逃れることは出来なかったが、通りのカフェから漂う珈琲の香りや、クリスマスの飾りを施した店先を眺めていると、わずかながらに暖かさを心に灯すことが出来た。それはこの曇天だからこそ合う匂いと光景だ。


そんな通勤路の途中にある公園を歩いていた、とある日の午後。

園内の裸の木の枝が毛細血管のように灰色の空に張り巡らされている。何気なく見上げて歩いていたから、それに気づくのが遅れた。

真正面から一匹の子猫が突進してきた。小さな前後の脚を忙しなく動かし、一目散に、真っ直ぐに。

思わず、何事かと立ち止まる。するとあろうことかその子猫は、俺の右足をよじ登ってきた。サバトラ柄でハチワレ、顔と腹は白い毛をしている。

「えっ? な…なんで…」

子猫が来た方向から「Miaミア!」と若い女性の声がした。顔をあげると声の主が白い息を吐きながら駆け足でこちらに向かってくる。子猫は俺の膝のところで前足の爪を立てて踏ん張りながら、ブルーの瞳で懇願するように必死に見上げてくる。

「Sorry. She is my kitten.」(ごめんなさい。それは私の子猫です)

彼女はややかすれた声に上目遣いで、心底申し訳無さそうに謝ってきた。

Keinカイン Problemプロブレム.  Kätzchenカッツヘェン hatハット denデン Schelmシェルム imイン Nackenナケン.」(問題ないよ。やんちゃな子猫だね)※1

彼女の英語がややドイツ語訛りだったことからドイツ語でそう返すと、少し驚いた様子だった。

「なんだ…ドイツの人でしたか」
「日本人だけど、ビジネスでこちらに来ることが多いから」

俺は右膝にしがみついている子猫を引き剥がそうとした。しかし爪をズボンの生地に引っ掛け、必死の抵抗を見せている。

「あ、こら、ミア!」

俺は前足に指をあてがい何とか膝から引き剥がすと、子猫は目を合わせ、さかんに鳴いた。
それを両手でくるみ、ニットの手袋がはめられた彼女の手の中に返した。
手袋と同じデザインのニット帽を被った彼女の、小さな顔の中の大きな瞳は子猫と同じ色をしていた。ゲルマン系というよりはスラブ寄りの、ほっそりした顔立ちだ。まぁドイツここには様々な人種が暮らしているから、特段珍しくもない。
それにしても綺麗な顔だな、と思う。

「なんだかこのコ、あなたのこと魂の片割れとでも思っているのかな」
「魂の片割れ?」
「だって、少し前までよちよち歩きだったから油断していましたが、少し目を離した隙に、あなたを見かけて一目散に…必死に」

思わず苦笑した。彼女の手の中でも子猫は俺に向かって鳴き続けている。
すると彼女は俺の胸元に子猫を差し出したので、再び前足の爪を立ててしがみつかれた。まさかのことに戸惑った。

以前、妻の弟が旅に出る間、彼が飼っていたグレイの大きな猫をよく預かった。その時もその猫に気に入られ、よく自分の後を着いて歩き回っていた。妻は「あなたがすぐチュールをあげちゃうからでしょ。気に入っているのはあなたよりおやつなんじゃないの」とあしらったが。

「確かに。前にも猫に気に入られたことがあったよ。オス猫だったけどね」

彼女はフフっと口角を上げ「男の子からも、女の子からも人気があるんですね。すごい」と笑った。
彼女は子猫を "Miaミア" と呼んでいた。ドイツでは女性に付けられる名前であり、猫の鳴き声にも響きが近い。
子猫ミアには相変わらず懇願するような潤んだ目で見つめられ、思わずたじろいでしまう。

「でも私、びっくりしました。あんなに素早く歩けるなんて、本当に驚いた」

確かに子猫なだけに、走るというよりはとにかく前足・後ろ足をちょこちょこと忙しなく動かして "速歩き" している、という感じだった。それを思い出し、くすぐったくなり思わず頬が緩んだ。

胸の上で大人しくなった子猫ミアを左手で支えると、

「すごい…大きな手…」

彼女はそう呟いた。

「だってこんなに小さな猫だし、手袋はめているし」
「革の手袋ですから余計に大きさがわかります。あなたの手は特別大きいようです。ここまで猫が小さいと感じることはなかったです」
「このコは今、いくつなの?」
「もうすぐ2ヶ月です。人間で言うと…6~7歳かな?」
「やんちゃなわけだ」

ふふっと彼女は笑った。俺も笑った。
子猫ミアを返し「じゃあ」と挨拶をし、互いに反対方向へ歩き出した。


🐾🐾🐾


次の日。
背後から子猫ミアが俺を追い越しざまに見上げ、高くか細い声で「ミァウ」と鳴いた。
ハッとして振り返ると、昨日の彼女がはにかみながら小さく手を振っていた。足元のミアを持ち上げると、昨日と同じようにまた盛んに鳴いた。

「毎日こんなに寒いのに、いつも猫を連れて散歩?」
「はい」
「はぐれたら大変だよ。ベルリンここは放し飼いはダメだから」
「今だけです。普段はカイロ代わりにここ・・にしまっているのですけど」

彼女がそう言いながらコートの胸元に何かを入れる仕草をした。俺はその真似をしてミアを自分のコートの胸元に入れた。

「確かに、これは暖かいな」
「あなたを見かけたから下ろしたら、案の定。あなたもミアもすっかりお似合い…あ、私の名前はZofiaゾフィアといいます」
「ゾフィア…」
「出身はポーランドです。あなたは?」

やはり、スラブ系であった。ポーランドではより高い賃金を求めて、若者はこうしてドイツに流れ込んでいると聞く(※2)。彼女もその1人か。

「俺は…こっちではリオって呼ばれることが多いな。日本人だ」

『遼太郎』という名は外国人には発音がしづらいらしく、何度言ってもいつのまにか「リオ」呼ばれされていることになるので、ビジネスの外では初めからそう呼んでくれていい、としている。

Herrヘル Ryoリオ…。あなたも毎日ここを通りますね」
「うん、通勤路だから。仮のオフィスは歩いていけるところにあるんだ」

俺は簡単に、自分が今ここに滞在している状況を説明した。家族の話に及んだ時、ゾフィアの表情が僅かに硬くなったような気がした。しかしそれは続けた彼女の言葉で、単に案じてくれているのだと思い直せた。

「日本に家族を置いたままなんですか」
「下の子がまだ小さいからね」
「そうですか。それは寂しいでしょう。ですがヘル リオ、とてもお若く見えますし溌剌としているので、お子さんが2人もいるようには見えませんでした」
「ありがとう、と言っていいのかな」
「他意はありません」

ソフィアの陶器のような肌に、仄かに朱が差した。

🐾

以来、ゾフィアとミアとはそんな風に公園で会い、立ち話や、時にはベンチに座って短い時間会話をするようになった。寒いからと、場所を変えて話し込むほどでもなかった。

ゾフィアはポーランドのPoznańポズナン出身とのことだった。ベルリンとワルシャワ間にはバスが通じているが、その途中にある街。ヴァルタ川の流れる、ポーランド5番目の規模の都市だ。

「ポズナン、知っていますか?」
「知ってるよ。一時期はドイツ領だったね。夏至の夜のランタン祭りで有名なところだ」

その言葉にゾフィアは顔をほころばせた。

「よくご存知ですね! 聖ヨハネ祭です。見たことがありますか?」
「いや、残念ながらポズナンを訪れたことはないんだ。人づてに聞いた。で、ベルリンここへは仕事で来ているの?」

ゾフィアはまだ二十歳で、訳あって・・・・一人で暮らしていること、大学は休学していること、ミアは大学の同級生の家で生まれた子猫をもらってきたこと、などを教えてくれた。ただ "訳あって" の部分や家族の話、なぜ大学を休学しているのかなどは、曖昧にして話したがらなかった。俺も深堀りはしなかった。

その分、彼女は俺については様々な質問をぶつけた。日本という国について、仕事について。ただ、俺の家族には触れなかった。
彼女は日本には高い関心がありながらも一度も行ったことがないといい、いつか必ず訪れてみたい、とブルーの瞳を輝かせた。
ニット帽から覗く髪は透き通るようなブロンドで肩で少しはねている。細身だがふっくらとした頬はあどけなさも残していた。


家路につく途中のそんなひと時は日課になり、2週間ほど続いた。


🐾🐾🐾


クリスマスとジルベステル(大晦日)は日本に帰り、ベルリンに戻ったのは1月2日のことだった。
いつものように仕事帰りに公園を通ったが、ゾフィアとミアの姿はなかった。
次の日も、その次の日も。

そうして三日が過ぎた頃。

「あの子、猫と一緒にあんたのことずっと待っていたよ」

ベンチで足元の犬と戯れていた年配の女性が、不意に俺に向かってぶっきらぼうな声を放った。

「あんた、よくこのベンチで子猫を連れた女の子と話していただろ。あの子、1時間はここに座って落ち着かなそうにしてたんだよ。"あの男のことを待ってるのか" と尋ねたら、ただ曖昧に微笑んでさ。このご時世、連絡先も聞いていないのかと呆れたもんだ。何だってこんな寒い空の下で待たなきゃならないんだい」
「彼女と知り合いですか? 今どうしてます?」
「風邪でも引いて寝込んでいるんだと思うよ。最後に話した時、咳き込んで具合悪そうにしていたから」

公園を取り囲むように建つアパートを、思わずぐるりと見回した。曇天の下でそれらは、身を硬くしてこの冬をじっと耐えてるかのように見えた。
このどこかにゾフィアはいるのか。

「どこに住んでいるか、ご存知ではないですか?」

女性は「さぁ、そこまでは」と肩を竦めた。

何故俺はいま動揺しているのだと自問し、ある予感が訪れた。
それはいくつかの種が混じった、危険な予感だった。





本文中に出てくるドイツ語はネイティブのものではありません。筆者がアプリで学習しているレベルのものです。

脚注1

※少なくともコロナ禍前の2019年辺りまで、ポーランドではそのような状況だったようです。現地の知人談。

脚注2

#2へ続く

全4話です。


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