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【連載小説】鳩のすむ家 #5 〜"Guilty"シリーズ

〜由珠子


こうして8月の土曜午前中、道場へ通う事になった。午前中であればそこまで外出も厳しくはない。Tシャツにジャージを履き、ジョギングがてら図書館へ行くと嘘を付く。途中繁華街で遊んだりしないようお金は殆ど持たせてもらえなくなるが、それでもこの上ない解放感のあるひとときだった。

野島さんには "10時から2時間くらい" と言われていたので、早めの9時20分に道場に向かった。着替える必要もなく準備を行おうとしたら、既に彼は袴を着けて巻藁に向かって矢を放っていて驚いた。巻藁とは読んで字のごとく、巻いた藁を的に見立てて矢を打つ練習に使うものだ。

「おう、来たな」
「おはようございます…10時からではなかったでしょうか」
「おはよう。早めに来ただけだよ」
「もしかして…私が来ることになって、ご自分の練習時間を奪うことになったからでしょうか」

野島さんは巻藁に向き直り「考えすぎだ」と一蹴した。
神棚の前で礼拝を行うと、彼はたくさん立てかけられている中から弓を選んでいた。

「福永は的前に立ったことはあったんだっけ?」
「7月から立ち始めておりますが…」
あたりは?」
「…ありません。全く、届きもしません」
「弓は何キロを使ってる?」
「確か…8kgです」

弓のキロとは、引く力の事である。重い・軽いではなく、強い・弱い、となる。当然だが数字が上がれば上がるほど威力を増す。8kgというのは最も弱い部類に入る。だから威力はない。

「野島さんは何キロを引いていらっしゃるのですか?」
「俺は16kg。特別強いわけでもない。ちょっと素引きしてみて」

そう言って野島さんは自分の半分ほどの力・8kgの弓を私に差し出し、正面に立った。真っ直ぐに見られると恥ずかしくて上手く引けそうにない。

「…そんな近くで、しかも正面に立たれるのですか…?」
「だって、そうしないとバランスとかちゃんと見られないだろ」
「そうですが…少々近いのでは…」
「変な意識するなよ。教えて欲しいと言っておきながら」

確かにそうなのだが。
普段は石澤さんや年配者が付いてくれるから、こんな緊張感を味わうことはなかった。
緊張…いわゆる若い男性と近い距離に身を置くことが本当になかったから。
それに野島さんは、気遣いは感じるが、言い方も冷たいし、怖い。
桜の下の悪魔、がよぎる。
だから、緊張するのだ。

「…申し訳ありません」
「そういう謝り方しなくていいから」

唇を噛み、私は打ち起こしの姿勢から大三(弓を引き下ろす手前の動作)を取った。

「そのまま引いて」

野島さんの指示通りに引く。

「右肘を意識して引けって言われてるよね。それを意識しすぎて身体が右に傾いでる。弓手ゆんで(左手のこと)はしっかり的に向かって押すんだよ。頭…身体の中心から弓手と馬手めて均等に分かれるのが理想。馬手を引く分、弓手はしっかり前に押し込んで。均等なバランスを意識するんだ」

そうアドバイスされ、2回目は弓手を意識した。

「あぁ、ちょっと待って。そんなにベッタリ手をつけたらだめだ。弓手は親指で押して小指で締める。残りの3本指は添えるだけ。だから押し込む時は親指の付け根で押す。手首じゃなくて、肘を伸ばすようにして押し込んで」

野島さんの指導は細かった。普段の稽古ではとにかく形を覚えて形通りに引くことを優先としている節があったから、自分のクセをここまで細かく指摘・修正されることはなかった。

弓の持ち方は改めて野島さんが手本を見せてくれた。あまりにも大きな手のひらだったので、驚いた。その左手の親指と小指それぞれの付け根にはタコが出来ていた。

「やってみ」

そう言われても親指と小指だけでこんなに大きな弓を支えるなんて…。

「まぁ、慣れるまでは少し大変かもな。コツがわかればなんてことはない」

この日は矢をつがえることはなく、ずっと素引きのまま姿勢を直す練習に費やした。

「福永はどうして弓道を始めようなんて思ったの?」

終わり際に弓を片付けている時にそう尋ねられた。

「…元々お茶を習っておりまして…お茶の先生の妹さんが石澤さんなのですが」
「さっきから堅苦しい言葉遣いだな。普通でいいよ」
「私はこれが普通なのですが…」
「嘘だろ。お嬢様なんかじゃないとか言っておきながら」
「…」

そんな事を言われたって…どういう話し方をしたら良いのか、慣れ親しんでもいないのに距離感がわからない。
ましてや男性。

思い悩むうちに野島さんは小さくため息をついた。

「…ごめん、変なこと言って悪かったよ。で、石澤さんに声かけられたんだっけ」
「正確には石澤さんのお姉さんであるお茶の先生です。練習には老若男女参加されていると伺い…。そうして石澤さんに弓道の魅力をお訊きしたら、無になれる瞬間があると伺って、興味を持ちました」
「無、ね…。どうして "無" に興味を持ったの?」
「…禅問答ですか」
「禅問答とは言わないだろ。…まぁいいや」

まぁいいや、とは。何だか諦められたというか、どうでもよく思われたような気がして、少し悔しくなった。

「無になれたら良いなと思ったのです」
「そうか」
「もうどうでも良いと思われていますよね」
「そんなことないよ。ほんとに負けず嫌いの構ってちゃんなんだな、なんちゃってお嬢様は」

本当に、ストレートに失礼な事を言う人だ。好感は持てない。
けれど続けてこうも言った。

「そういう子は上手くもなるし、強くなるよ。まぁ練習するんだね」

そして "そんな俺はこれから練習するのだ" と言い、私を道場から追い出した。


上手くなるし、強くなるー。
なれるだろうか。


***


何とかなるものだ。
夏休みを終える今日まで、私が区のスポーツセンターで弓を引いていることは家族に気づかれてはいない。

8月の土曜日の午前中は毎週、野島さんが教えてくれた。相変わらず素っ気ないし、カチンと来ることもたくさん言ってくるけれど、教え方は的確でわかりやすかった。最終週には矢が安土まで確実に届くようになり、一度だけ的にてることもできた。

確かに的に中てた時は、無になっていたと実感できた。このことか、と思った。

「練習すれば確実に中るようになるよ。弓の強さも上げていけるだろうし」

珍しく野島さんは私を褒めた。

「そうですか」
「大学に行っても続けるの?」
「そうですね…」

大学生活。どうなるのだろうか。
今と何か、変わるのだろうか。門限が延びるとか? 繁華街に行けるようになるとか?
そんなこと急に許されるようになるなんて想像つかない。だって "悪い虫" がつかないように、私は閉じ込められているのだから。大学生になったからといってそれが解除される理由にならない気がした。
そうしてそのまま、男の人を知らないまま、私は "いいお婿さん" を押し付けられ、"なんちゃってお嬢さん" のまま、あの鳩の家で生きていくのだろうか。

「どうした?」

野島さんの声に我に返る。

「いえ…」
「お前、時々そういう顔するよな」
「え…」
「受験で悩んでいるわけでもなさそうだけど。お前のとこ、エスカレーターなんだろ?」
「…」

あなたに話したところで、どうにかなるわけでもない。

「ま、別にいいけど」
「…貴重なお時間を割いて教えてくださり、ありがとうございました」

私は頭を下げた。

「まぁ、またな」

そう言われて道場を後にしたが、夏休み明けに行われた試験で私は成績を少しだけ落とした。
そのために暫くの間、水曜の弓道はもちろん、金曜のお茶の稽古も行かせてもらえなくなった。







~石澤尚子


「石澤さん。あの女子高生、どうしたんですか」

辺りが暗くなるとわずかに虫の音が聞こえ始めてきたが、猛暑の余波はななかな引かず、蒸し暑さの続く9月下旬のある夜だった。

若き講師の野島遼太郎くんが練習の合間、出し抜けにそんな事を訊いてきた。

「由珠ちゃんのこと?」
「はい。もう3週間来ていない」
「さぁ…学校が忙しんじゃないの?」
「別に今は試験の期間でもないですよね」
「試験でなくたって…忙しいこともあるでしょう。3年生なんだし」
「彼女は併設の大学に無試験で進むから、特に試験勉強もないと石澤さん以前おっしゃっていましたよね」
「…そうだったかしら」

よく憶えているわね。
気があるのかしら。確かにこの道場内では若手筆頭の2人。けれど相手は女子高生、それも、少々いわくつき・・・・・の。

姉から聞いたのは、彼女…福永由珠子ちゃんの家はかなり厳しく、由珠ちゃんの祖母にあたる方が姉の知人なのだが、そのお祖母さんが…貞操観念がとても強く、相当うるさい方だと聞いた。

実は弓道教室見学のきっかけも、姉が一肌脱いだらしかった。その後ここに通うことになったのも、家人は知らないと言う。面倒掛けるけど、ちょっと配慮してやって、何だかちょっとかわいそうで、と姉からの忠告。

「…どうしてあの子だけそんなに気になるの」
「あの子だけってわけではありません。誤解されているようですけど、下心はないですよ。8月中、僕は毎週土曜日に基礎を教えていました。彼女、かなり上達してきたんです」
「毎週土曜日?」

土曜の昼間に、この青年が教えていたなんてことが彼女の家に知られたら…想像するだけで恐ろしい。
…もしや、知られてしまったから、あの子は今来られない、なんてことになっているのでは…。
いつもどこか、怯えたような目をしていた由珠ちゃん。そう、まるで飼い主に捨てられ保健所に引き取られた犬か猫のような目。檻の中の、人間不信の目。

「何か問題でしたか? 8月中は夜間の外出が難しいというので、僕が昼間ここを借りているついでに教えてやると言ったのです。昼間なら問題ないと言うので。道場には他に人も来ていたし、やましいことなんて一切ありません」
「そんなこと疑っているわけじゃないけども…相手は女子高生だし、何かと、その…あの子の家は、その…ご家族が特に厳しいから」

野島さんは眉間に皺を寄せた。

「やっぱり」
「やっぱりって…」
「家に問題がありそうだなと思っていたのです。僕のような輩が、彼女と同じ空間にいること自体が一大事だったってことですか」
「あなたのような人だからってことはないと思うけれども…、わかるでしょう?」
「わかりますが、すっきりしませんね」
「外出が禁止されることもあるみたいなのよ。今がそうなのかも。理由はわからないわ。野島くんのせいじゃないと思いたいけどね。とにかく…そっとしておいてあげてよ」
「そっとしておけば、平穏無事で済むのですか。臭いものには蓋をしたがるご都合主義の典型ですね」
「そういうわけじゃ…。野島くん、本当に言い過ぎよ」
「十分わかりました。もう結構です」

全くもう。あの子は普段は物静かで真面目に教えているのに、口を開くととんでもないことを言うものだから、なんだか怖いのよね。年配の男衆にはどういうわけかウケがいいみたいで、たまに飲みに行っているみたいだけれども…。


とは言うものの、私だって由珠ちゃんのことは気掛かり。姉のお茶教室にも来ていないと言うし…。
今どきそんなに外出厳しくしたら、社会に出て強く生きていけなくなってしまうと思うのよね。
あの子は、新しい時代を生きていく子なんだもの。

古いマニュアルでは、動かないわよ…。






#6へつづく


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