【連載短編】猫と、ありふれた孤独 #3
🐾🐾🐾
ゾフィアは大きなキャンドルに火を灯すとテーブルに置いた。ソファに並んで座り2人の食事が始まる。しばらくの間は言葉少なく、スプーンが皿にあたる音が響く。時折ゾフィアが咳き込むので背中をさすってやる。
そんな彼女の食事の様子を思わず見つめてしまい、視線に気づいたゾフィアが頬を染めて目を逸らす。気まずくならないように言葉を選んだ。
「食事もままならないほど具合が悪くなって…友人は尋ねてきたりしないのか」
ゾフィアは首を横に振った。猫を譲ってくれた学友がいるとはいえ、そこまで深い付き合いでもなく、自分が休学してからは忘れ去られていると思う、と寂しく笑った。
「両親は? 話したくないのなら話さなくてもいい」
彼女はしばらく答えず俺の手をじっと見つたままでいた。やがてポツリと言葉を落とす。
「ヘル リオの大きな手、私の父だった人より遥かに大きいと思います」
「父だった人?」
ゾフィアは目を泳がせ、落ち着かないそぶりを見せた。
「きみの両親は亡くなっているのか? 僕の妻も、若い頃に両親を亡くした。今のきみよりもう少し若いくらいの頃に」
ゾフィアは首を横に振り「母は亡くなりましたが、父は生きています。たぶん。どこかで」と、まつ毛を伏せた。
「そうだったか…父親の行方はわからないのか」
ゾフィアは肩を竦め、話を続けた。
「父が家を空けがちなのは仕事のせいだと聞いていました。ですが私が6歳の時、ついに帰ってこなくなったのです。それから程なくして母が亡くなりました」
「まさか…」
ゾフィアは首を横に振る。
「その後はハンブルグに住む母方の遠縁の家に引き取られましたが、その家には既に3人の子供がいました。身体が弱かった私は肩身が狭くて…。だから大学進学でベルリンに出てきて一人暮らしを始めたんです」
「でも、そんなに身体が弱いのなら、一人暮らしは困ることがたくさんあるだろう? せめて友達を頼るとか、パートナーを作るとか…」
「そうですね、言うほど簡単ではないけれど」
そう言ってまた、力なく笑った。
今日、俺がここにたどり着いたのは偶然と奇跡が重なったに過ぎない。下手したら一人ぼっちで死の淵を彷徨うことになっていたかもしれない。それは、今後もその可能性が大いにある。
そう考えると背筋が震える。
一年半前、俺は学生時代の友を亡くしている。
ひとりぼっちの自室で、あいつは命を絶った。
直前まであいつに会っていたにも関わらず、救えなかった。助けてくれと手を伸ばしていたわけではない。ただあいつは俺を、最後に言葉を交わす友として俺を選んだ。なのにどうして…俺は何か…もっと何か…出来なかったのか。
その悔しさは、今まで味わったことがないほど、強く苦しいものだった。
ただ俺とゾフィアには距離がある。物理的にも、社会的にも。
どうすることも出来ない。
どうすることも出来ないのに、友の死が、両親がいないという妻と同じ境遇が、重くのしかかる。
「ヘル リオ。私はミアが羨ましい。その大きな手にすっぽり包まれているミアが。あなたの手からミアを受け取ったあと、私はいつもミアの身体に鼻を埋めて匂いを嗅いだり、頬をこすりつけたりしています。猫のそれを感じたると同時に、間接的にあなたを感じたくて。変態でしょう」
「ゾフィア…」
続く俺の言葉を遮るかのように、ゾフィアはミアに向かって「Miez、Miez」と呼びかけた。目を覚ましたミアは忙しなく脚を動かしてこちらに来た。
「ミアもディナーにしましょう」
そう言って彼女はキッチンに立ち、猫皿にキャットフードを入れ少量の湯でそれをふやかした。その皿をソファの足元の、自分と俺の間に置いた。
ミアが皿を舐める音が、重い沈黙の間を縫う。
「わかっていますよ。いけないことくらい。ありふれた話です…いや、そうでもないか」
ソファに腰を下ろすとポツリとそう呟き、額に手をあてた。
「まだ熱があるみたいだね」
「これでも下がってきた方なんです」
「じゃあ、買ってきた薬を飲んでおこう」
何となく気まずい空気を断ち切るように俺はキッチンに向かい、解熱剤とグラスの水を用意してゾフィアに差し出した。
グラスを受け取る彼女の指先が手に触れた。錠剤を飲み込む白い喉が上下する。
「明日病院に行ってくれ。良かったら俺も付き添うから」
「大丈夫ですよ。あなたが買ってきてくれたお薬で、明日はきっと善くなっていると思います」
「看過するな」
「でも…またここに来てくれるというのなら、ありがたいです」
「来るよ。きちんと診てもらおう」
彼女の視線が俺の手から目へと移る。上目遣いの瞳はやや潤んだように熱を帯び、深く俺を覗き込む。そうして見つめられて気づく。
彼女の瞳のブルーはややグレイを帯びている。見事な色だ、と思う。
吸い込まれそうになる。
「ヘル リオ。あなたはとても素敵な目をしているのですね」
「素敵な目?」
ゾフィアの瞳が綺麗だと思っていた矢先にそんなことを言われて思わず苦笑いしたが、彼女は真面目な顔のまま続けた。
「艷やかな大きな黒い目、白目との境がはっきりしていて、とても凛々しく見えます。あなたの意思の強さがその目に現れているとわかります」
「そんなに強くなんか…」
「ヘル リオ、ひとつお願いがあります。ミアみたいに私のことも包んでくれませんか」
「えっ…」
「さっき私の額に触れましたね、熱を確認しようとして。私、びっくりして、気を失って倒れるかと思いました。天にも昇るような気持ちになって」
「ゾフィア…」
ここに来る前からわかっていたはずだ。危険だと。
「あなたのその、大きな手で、私に触れて欲しい。お願いです」
熱がそうさせているのか。
ためらいながらも、両手で彼女の頬を包んだ。そうして改めて、驚くほど小さな顔だと認識する。華奢な首は、触れるのすら恐ろしくなる。ミアを包んでいるときと同じような感覚だ。小さくて脆くて、すぐに壊れてしまいそうな。
銀糸のような髪がはらりと手の甲に触れる。
遠い遠い記憶の中に閉じ込めた、1人の女性の姿がフラッシュバックした。学生時代の恋人だった。ちょうどこんな風に光に透けるような髪をしていた。陶器のように真っ白な肌。細い首。長い四肢。その肌の上に散らばる、紅い薔薇の花びら…。
あれから20年以上過ぎているというのに。つい最近まで夢の中で俺を苦しめた、かつての恋人。
うっとりとまぶたを閉じていたゾフィアが、再び潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめ、そのブルーが俺を現実に引き戻す。
「Danke. ヘル…」
続けてゾフィアの唇が、動いた。声にせず、ある形を作った。
俺の右手は、彼女の項を摑んでいた。同時に再び頭の片隅でアラートが上がる。
壊してはいけない、と。
微かに開いた唇に、ため息と共に触れた。
吐息が交ざり合い、乾いた唇はすぐに潤った。微熱のせいか、絡みつく舌は熱を帯びていた。
細い糸を引いてそれが離れると、真っ白だった彼女の頬に血が通い始めた。
頭の中のアラートに反するのは、俺の抱える "問題" のひとつだ。
🐾🐾🐾
翌朝、ゾフィアのかかりつけのPraxis(開業医)に付き添った。入院が必要なまでもないと言われ、胃腸薬と吸入薬が処方され、帰ってきた。
昼間にゾフィアがぐっすりと眠っている間、洗濯物をランドリーに持ち込み洗濯を待つ間、オフィスに連絡を入れた。知人が急病で1日休むとした。
食事はさすがに連続のインスタントでは申し訳なく、ついでにスーパーマーケットへ買い出しに行った。そして出来る限りの調理を施した。野菜をコンソメで煮込んだポトフ。ソーセージは細かく刻んで入れた。それとなるべく口当たりの柔らかいWeizenbrot(白いパン)を合わせた。
「いい匂い」
日も暮れる時間に目を覚ましたゾフィアが肩越しに鼻を鳴らすと、ミアも足元でミァウと鳴いた。
「昨日よりだいぶ顔色がいい。良かった」
「リオのおかげ。Vielen danke.(本当にどうもありがとう)」
昨夜から "ヘル" が外れた。
背後から彼女の腕が伸び、俺の腹に巻き付けてくる。骨ばった少年のような身体が密着する。
「リオの背中、暖かい。血の流れる音が聞こえる。素晴らしいリズム」
「ゾシャ、一応料理中は離れてくれよ」
俺も昨夜から、彼女のことをポーランド語の愛称で呼ぶようになった。
昨夜、長い長い口づけを交わしたが、そこから先には進まなかった。
ゾフィアは時折咳き込み、そのたびに背中をさすってやった。ごめんなさい、と彼女は何度も謝った。
『背中に触れるリオの手…すごく安心する…』
その涙を拭い、髪を、頬を撫で、包んだ。
いつしか俺もそのまま、眠りに落ちた。
朝、目覚めて、俺を見てゾフィアは "まだ、いてくれた" と、また涙を流した。
夢じゃない、と。
「あなたがコンロから離れたらいいのよ」
身体を180度回し正面にゾフィアの身体を据えると、彼女はミアの鳴き真似をしながら顔を俺の胸にこすりつけてくる。
「リオが悪魔を追い払ってくれたのね。大天使ミヒャエルのように。そのミヒャエルを連れてきてくれたミアも神の使徒ね」
そうして唇を突き出してくる。妬いたのか、ミアが長い声で鳴いた。
その唇に人差し指をあてるとゾフィアは拗ねてみせたが、すぐに恥ずかしそうにまぶたを伏せた。
「今夜は元気そうだから帰るよ」
途端に見開いたブルーの瞳が翳る。
「帰らないで」
「ゾシャ」
「せめて食事だけでも一緒に食べていって。急に一人は心細い」
昨夜も "食事は誰かがいた方がいい" と彼女は言った。確かにその通りではあるが、それではなおさら、一人で暮らす意味がない。
そう考えながら、昨夜はこんなことも言っていたことを思い出す。
"パートナーを作るのも、言うほど簡単ではない"
だから、猫を迎え入れたのか。孤独を埋めるために。まぁそんな理由はあるだろう。
すがるように見つめられ、ため息をつくと、ミアも俺を見上げてミァウと鳴いた。
仕方ないな、と答えていた。
🐾
食後に薬を飲ませ、吸入薬を取り込み終えるのを見届けた。腹の膨れたミアも、俺の腿の上で大人しくしている。
ゾフィアは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「私、子供の頃からずっとこんななの。薬ばかり。ステロイドの吸入薬の副作用で喉もガラガラ、声がかすれちゃう。ねぇ、こんなケミカルなものをずっと身体に取り込んでいて、おかしくならないのかな?」
「薬を辞めてしまったら、もっとおかしくなってしまうだろ」
「リオが羨ましい。何にも取り込まなくても普通に生活出来るんだもの」
「俺だって…」
俺だって、薬にまみれた時期があったよ。別れた女が出てくる、酷い悪夢を見ていたんだ。
しかしそんなことを言って慰めになるのか。
「ゾシャ、気持ちはわかるよ。でも…」
「ごめんなさい。ひがみっぽいの、こんなんだから。許して」
右手で彼女の額に触れる。もう熱はない。
親指で頬骨を撫でると、うっとりとまぶたを閉じた。
「リオの手、初めて会った時に、一目惚れした。その手が、ミアを包んでいた手が、私を包んでくれるなんて、本当に夢みたい」
ゾフィアもミアも、真っ直ぐ一目散に飛び込んできた。それは小さく、あまりにも脆く儚かった。
ゾフィアに出会ったのは、どういう因果なのだろうと、ふと思う。
神の使徒、ミアが救いを求めてきたのか。主を助けてくれ、と。
あるいはミアは実はあいつの生まれ変わりであるとか? ひとりにしないでくれ、と姿を変えて訴えているのか?
そう考えて失笑した。俺はミヒャエルなんかじゃないし、なんだってあいつがドイツの猫に生まれ変わるんだよ、と。
俺は何も出来ない、はずなのに。
太腿の上でミアは素知らぬ顔で喉を鳴らしている。
#最終話へつづく