【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Childhood #5
ベルリンの小学校Grundschule(グルンドシューレ)まで、少し距離はあったが徒歩で通う梨沙。その代わり通勤の遼太郎が送り迎えをしてくれる。比較的自由な時間を選択して働くことの出来るドイツの職場で、梨沙の通学に合わせて勤務時間を設定しているのだ。
授業が終わった後、別の部屋で絵を書きながら父を待つのも、教師は小1時間なら、と見守ってくれた。
本当は1人でも登下校出来るのだが、梨沙は甘えていた。また帰って父のいない家で過ごすのが居心地悪かった。
後に蓮が同じ小学校に通うようになっても、彼は一人で家に帰り、梨沙は父が寄ってくれるのを待っていた。
学校は土日は完全に休み。
日本の学校と大きく異るところは、掃除当番の概念がない。掃除はハウスマイスター、日本の学校で言う用務員のような人が行う。自分たちでは掃除はしない。
日直のような仕事はあって、そのハウスマイスターが毎朝淹れるMinztee(ミントティー)のやかんを取りに行く。梨沙はこのミントティーにはちみつをが少し落として飲むのが大好きだった。
家でもやってと夏希にねだり、夕食後にみんなではちみつを落としたミントティーを飲むことがあった。遼太郎は「モロッコ風だな」と言って美味そうに飲んだ。
教科書は持ち帰らずロッカーにしまう。今はタブレットも使用するがテストの際は筆記が必須で、しかも鉛筆ではなくペンを使用する。ドイツでは優れた文房具メーカーが多いが、こうした背景もあるのだろうか。
カラーペンなども色の規定は特になく、子供たちは自由に好きな色を持っていって良い。梨沙は特に絵を描くのが好きだから、多くの色を所有していた。
万年筆やボールペン、修正液にスティックのり、はさみなど一緒くたに入れるので、筆箱というより道具箱に近かった。梨沙の場合はカラーペンが多すぎて、別の箱に入れて持ち歩いた。
また授業中の間食が許可されているので、梨沙も家からりんごやバナナ、クッキーなどを持参することがあった。
昼食は家に帰って取ってもいいが、梨沙は食券を買って構内で買い、学校の敷地内で食べていた。ただ好き嫌いもあるので少食だった。
当然ながら歴史の授業は日本史などやらない。日本語学校でも日本史は学ばない。だから梨沙は日本史をほとんど知らずに過ごしたため、小5で日本の学校に編入した時からずっと日本史の成績は最低ラインだ。
毎年10月に行われる学校祭では戦争にまつわる劇など行うため、4月辺りから準備が始まる。大抵は先生が脚本を用意し演技指導をする。「アンネ・フランク」や「ハンナのかばん」などは梨沙も実際に演じた。
とはいえ、ホロコーストに関する授業は低学年ではまだ理解できないだろうと踏むためか、梨沙が在学する間は行われなかった。小学5年生あるいは中等教育の時期辺りから始まるようだ。
残念ながらアジア人差別もあった。
公園で遊んでいたり、ちょっとした遠足先で「イエローモンキー」やら「ヤパーナ(日本人)」など言いながらからかわれたりした。
突然、やんちゃそうな女の子数人が犬の鳴き真似をしながら歯向かって来、梨沙が驚くと面白がる悪ふざけもあった。
しかしグルンドシューレにはアジア人も僅かながらに他にもいたし、基本的に多民族で、多様性に寛容だ。
日本の学校と違い、ドイツはとにかく自主性を重んじる。授業中の発言はみな積極的に行うため、とても賑やかだ。梨沙も負けじと手を挙げ発言しており、そこに遠慮や謙遜といった "日本人らしさ" はあまりなかった。
学校はとても居心地が良かった。
ベルリンでの梨沙は教えには素直に応え、のびのびと育っていた。
また梨沙の絵の才能は教師も含めクラスメイトみんな称賛した。
学校の行事で、とある駅の近くにある壁に児童が『壁画』を施すことがあったが、梨沙の描いた作品は皆を圧倒した。
それが話題となり、教師の知り合いがやっているカフェの一角に梨沙の絵を飾りたいと依頼を受け、それに応えるとあっという間に反響を呼んで更なる作品依頼が舞い込んでくるほどだった。
梨沙も快く応じ、何枚も描いた。時には写実的に、時には観念的に。
写実的な絵にはさすがに夏希も舌を巻いた。
「梨沙、本当に絵が上手だったのね…」
そんな母の言葉に梨沙もちょっと得意げになる。
"Lisa" の名前はその界隈ではちょっと知られるようになった。
将来は画家、少なくとも何かしらのアーティストになることは間違いない、と言われた。
絵を通じて次第に幅広い年齢層の友人も増えていき、梨沙はこの上なく充実し、楽しい日々を送った。
***
苦労をしたのは夏希だろう。なにせドイツ語はさっぱりだし、英語だって得意なわけではない。
ドイツの食事は美味しいものが多いがどうしても単調に感じ、飽きてしまう。少々高くても日本の食料品を売っている店で調味料などを揃え、日本の家ではあまり意識してこなかった『ザ・和食』を敢えて作るようになったのは皮肉だろうか。
それでも日本のように魚介類は豊富ではない。またベルリンにも日本食レストランはいくつかあるものの非常に贅沢だし、定食屋さんの焼き魚だとか煮物だとか、そういったものが夏希は恋しくてたまらなかった。
子供たちはまだ舌が肥えていないせいか、文句は言わない。特に梨沙は魚介が嫌いだった。まだドイツの食事の方がマシなようだった。
遼太郎に「日本食は恋しくならないのか」と尋ねた時「別に」と言われた。そういう感覚がないと海外赴任なんて務まらないのだろう。
子供たちが通った日本語補講学校で知り合った日本人コミュニティを夏希は拠り所とした。オンラインで出来る簡単な仕事も得てお小遣い程度は稼いだ。
「3年か4年かわからないけれど、とにかく有限だ。その期間耐えればいいだけのこと」
そう自分に言い聞かせた。
結局のところ5年間滞在することになったが、夏希のドイツ語はほとんど上達しなかった。家では遼太郎と梨沙、蓮はたまにドイツ語で会話することもあったというのに。
遼太郎からは「ドイツ語なんて簡単じゃないか」と言われたが、語学の基礎が異なる人に言われても到底納得は出来ない。
つくづく海外暮らしは向かないのだな、と夏希はため息をついた。
またもし今後、遼太郎が海外赴任となったら…その時はどうするだろうか? 喜んでついて行く…わけでは決してないだろう。
ただそれでも離れて暮らすことは出来ないだろう。毎日毎日生存確認にヤキモキして過ごすのは現実的ではない。
遼太郎はそんな夏希の心の傷をよく理解してはいるが、夏希の両親のような事故でもない限り誰だって死ぬ時は独りだろう。そばにいるからと言って安全が保証されるわけでもないと考えている。
だからといって夏希を一人にすることはないだろうが。
#6へつづく
※※ドイツでの小学校の様子、暮らし、感じたことなどはりーさんへの取材を元に書きました。もちろんありのままではなく物語として加工しておりますし、梨沙のモデルということとはまた違いますのでご了承ください。りーさん、ご協力ありがとうございました。
参考文献
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