【連載小説】奴隷と女神 #7
夏休みは8月の前半に6日間、同期3人でパリに行くことになっている。
休みは会社一斉ではないから有給と組み合わせて1週間、私たちは部署も違うため日程を合わせて休むことが出来た。
そんな旅行のための服やカバンなどを買いに、ひとり銀座に出た。
みんなで一緒に買いに行こうという話も出たが、それだと私は流されて買いがちで満足の行く買い物が出来なさそうだから、一人でも行くことにした。
ふと、この前の西田部長の言葉を思いだす。
“桜梅桃李って、名前の通りなんじゃないの?”
それぞれが独自に花を咲かす。みんな違って、みんないい。
「そうかな…」
独り言を呟いてしまう。
けれど結局一人でもなかなか決められず、カバンは諦めて服を2着だけ購入した。
晩ご飯はどうしようかな。今から帰って作るの、少しだるいな。
そう思ってメトロの駅に向かっている途中。
ふと足を止める。
西田部長だ。
ドクドクドク、と一気に鼓動が高鳴った。
普通に歩いている。何をしているんだろう?
私は思わず駆け寄り、正面から声を掛けた。
「西田部長」
「あぁ、松澤さん…。お疲れ様。びっくりした」
「お疲れ様です。お買い物か何かですか?」
「うん、伊東屋に行ってたんです。松澤さんも買い物?」
西田部長は私が手にしていたショップの手提げを見て言った。
「はい、夏休みの旅行の準備で」
「へぇ、どこへ行くんですか?」
「同期とパリです」
「パリか。いいですね、楽しんできてください」
じゃあ、と言って去ろうとした西田部長を見て、私はこのまま別れるのはもったいないと思い、言った。
「西田部長はもう帰られるんですか?」
「うん、ちょっと食事をしてから帰ろうと思ってます」
あぁ、これはチャンスだ。
「私もご飯、外で食べようと思って彷徨っていたところなんです。どこかお勧めのお店、ないですか?」
我ながらスルスルと、よくもそんなセリフが出てきたなと驚いた。環が降臨でもしてくれたのだろうか。
私はここでも、何となく確信していた。
きっと一緒に食べに行く、と。
「若い女性が好むような店は、わからないよ」
西田部長は苦笑いして言った。
「私、同期と赤ちょうちんも行ったりするんですよ。どんな店でも大丈夫です!」
すると彼はプッと吹き出したかと思うと、あはは、と声を出して笑った。
笑った、と思い、更に胸が高鳴る。
「松澤さんって面白いですね」
「…初めて言われました」
「そう?」
そして困ったような笑顔になって一つ息をつくと、
「じゃあ…、良かったら一緒にどうですか?」
と言った。
ほらね。思った通りになった。
* * *
向かった店は銀座一丁目にある『笑笑庵』という、一品料理の種類も豊富な、お酒も飲めるお蕎麦屋さんだった。
落ち着いた照明で、客層も品の有りそうな人たちばかりだった。
向かい合せで座ると流石に緊張して、メニューに逃げ込んだ。
「ここはよくいらっしゃるんですか?」
「たまーに、ね。何か飲みますか?」
西田部長に合わせます、と言ったらグラスビールを2つ、頼んでいた。
彼は「せっかく一人じゃないし、アルコールも入るし」と蕎麦揚げと鴨ねぎ塩焼き、そして玉子焼きも注文してくれた。
ビールが運ばれてきて「お疲れ様」とグラスを合わせた。
「松澤さんはよく外食するんですか?」
「普段は自炊しています。今日は買い物して少し遅くなっちゃったし、ちょっと作るのだるいな、と思っていたところに西田部長に遭遇したんです」
それは嘘じゃない。
西田部長は「自炊するんだ」と驚いたような顔をして言った。
「しますよ。外食ばかりしてたら太っちゃいますから」
「そっか。そうしたら僕はデブまっしぐらだな」
「どこがですか!? 細身だなって思っていたんです」
そう言うと彼はスッと目を細めて私を見た。何というか、一瞬空気が変わったような何かを漂わせて。
でもそれはすぐに消えた。
「え、でも、西田部長、外食ばかりなんですか?」
「毎日そうですよ」
「だって家では…」
そこまで言いかけて口を噤む。西田部長は奥様の話をされるのがあまり好きではないとのことだったから。
「妻は料理をしないんです」
意外にも西田部長は微笑みを湛えてそう答えてくれた。けれどそれには十分な棘を含んでいることを感じ取った。
「お仕事忙しい方、っておっしゃってましたもんね…奥様…」
「仕事が忙しかろうがそうでなかろうが、料理はしないんです」
「…そうなんですか」
相変わらず笑顔だけれど、奥様への愛情というようなものを一切感じない。
「でも…そしたら奥様と一緒に食事に出られたりはしないんですか」
彼が答える前に頼んでいた料理が運ばれてきた。
「ほら、蕎麦揚げはビールに合いますよ。あとは若い松澤さんのために頼んだ玉子焼き」
「ちょっと! 子供扱いですか? お寿司屋さんで玉子しか食べられないみたいな感じで受け止めました!」
そう言うと西田部長はまた、あはは、と声を挙げて笑った。
急にそんな楽しそうにするの、反則…。
でも揚げ物も玉子焼きも温かいうちが美味しいから、お互いに箸を進めた。
さっきの質問はなかったことになっちゃうかなと思っていたら答えてくれた。
「月に1度くらいは行きますかね」
「そんなに少ないんですか」
「彼女はあまり家に帰ってこないですから」
「えっ?」
「職場に泊まり込んだりしているみたいですよ。本当かどうかは知らないけれど」
衝撃的な言葉だった。
#8へつづく
【紹介したお店:笑笑庵】