【連載小説】奴隷と女神 #25
年が明けて少し経った頃。
急に私は響介さんのつけているPENHALIGON'Sの『ENDYMION』を手に入れたくなり、会社帰りにデパートのメンズコーナーに足を運んだ。
PENHALIGON'Sは定番ラインナップが7~8種類ほど並んでいた。
『ENDYMION』を手にしてムエットに1プッシュ吹き付ける。
シトラスが結構強い。思った以上にシャープ。
思えばここまでのトップノートは嗅いだことがない。
これが人肌に乗ると少しクセのあるレザーがたってくるんだ…。
響介さんの肌に乗ると…。
想像して身体が熱くなる。パブロフの犬のよう。
「何かお探しでしょうか」
店員が近づいてきた。
「ENDYMIONを…」
私が言うと「プレゼントですか」と訊かれる。
恋人がつけているので、と答えた。
「それでしたら、こちらの『LUNA』はユニセックスになっておりまして、女性の方にも人気があるんですよ。この『LUNA』は『ENDYMION』と相性が良くて、お互いの匂いを消し合わないようになっているんです。ギリシャ神話上でも月の女神とEndymionが恋仲だったように…。そんな素敵なエピソードも込められているんです。なので恋人の方が『ENDYMION』をお持ちなのであれば、この『LUNA』をあえてつけるというもの、粋ですよ」
そんな店員の話にいたく感心してしまった。
ただ『LUNA』のトップノートは私にはあまりピンと来なかった。
100mlだと量も多いし、値段も手頃感はない。
私は店員に「ちょっと考えます」と言って売場を離れた。
* * *
翌日、響介さんとのお家デートの時に、昨日デパートで聞いたLunaとEndymionの話をした。
「『ENDYMION』ってギリシャ神話に出てくるゼウスの息子の中でも一番の美男子だったんですってね。それで、その美貌をいつまでも側で愛でていたいという月の女神がEndymionを永遠の眠りにつかせてしまったとか。知ってました?」
響介さんは少し硬い表情で、黙ったまま私の話を聞いていた。
「PENHALIGON’Sにも『LUNA』って香水があって『ENDYMION』とカップルで付けても互いが香りを打ち消し合わないようになっているんですって。私『LUNA』を買おうかなと思って。そしたら響介さんとペアで香る事が出来るから」
そういうと彼は強張った表情になり「だめだ」と言った。
そんな様子の彼を今まで見たことがなかったから、驚いた。
「どうして? 会社にはつけて行かないようにします。響介さんとのデートの時だけとか、持っているだけでも…」
「だめだ。そんなのつけなくていい。持っているのもだめ」
吐き捨てるように言う。そんな剣幕も、初めてだった。
「…どうしてですか? どうしてそんな怖い顔をしているの?」
彼はしばらく唇を噛み締めて黙り込んでいたけれど、やがてその重い口を開いた。
「妻が…それを持っているから」
頭を殴られたような衝撃だった。
響介さんの奥様が『LUNA』をつけている…?
つまり奥様が月 - Luna - の女神で、彼はその美貌を永遠の眠りと共に提供したEndymionであると。
夫婦の姿をありありと見せつけられた気がした。
「だから…同じものを小桃李に持っていて欲しくない」
「…ペアだって知ってて買ったんですか? 響介さんは確かお土産でもらったと」
「妻が海外出張に行った時に買ってきたんだ」
「…奥様はこの物語を知ってて買ってきたんですかね?」
響介さんは何も答えず黙り込んだ。
奥様は、彼をEndymionにしたかったのだろうか。
本当は響介さんと奥様は、強い絆で結ばれているんじゃないの?
例え奥様がどんなに家にいなくても、お料理を作らなくても、それでも離れることが出来ない強い絆で。
奥様が、響介さんを永遠の眠りにつかせてしまった…?
響介さんはそんな奥様に、自らの永遠を捧げた…?
「響介さん、本当は奥様のこと、心の底から愛しているんじゃないですか?」
「…」
答えてくれない。悲しかった。
私は太刀打ちできないんじゃないかって。
ぽろぽろと涙が溢れてくる。
「だから毎日『ENDYMION』をつけて…奥様があまり家に帰れずに別々で過ごす事が多くても、香りで繋がっていることを感じられるように…それでつけているんじゃないですか?」
「…違う」
「奥様もきっと『LUNA』を毎日つけていらっしゃるんでしょう? 『ENDYMION』の存在を消すことなく引き立てる…香りを纏って」
「妻がつけているかは知らない」
「きっとつけてます」
「どうして決めつける?」
「だって!」
後から後から涙がどんどん溢れてくる。響介さんが私に触れようと伸ばした手を、私は振り払った。
「響介さんにとって私はやっぱりただの気休めでしたか? ちょっと若い子と遊べて楽しかったですか? 社内でスリルを味わえて、いい気分転換になりましたか?」
「小桃李…どうしてそんなこと言う…?」
「だって私なんて…どこがいいのかわからない。奥様のようなステータスはない。背が低くて美人でもないし頭も良くない。仕事がバリバリ出来るわけでもない。料理が上手なわけでもない。響介さんに釣り合う要素、一切持ってないのに、響介さんがそばにいてくれたのって、ただHが出来れば…」
そこまで言った時、響介さんは私の口を塞ぐように顎を摑んだ。
「僕が身体目当てで小桃李に会っていると言うのか?」
すごく怖い目をしていた。本気で怒っていると思った。
「は…離し…」
「小桃李が今言ったことは全部小桃李の妄想だ。何一つ正しくない」
彼の指が顎に、頬に食い込む。痛いと言いたいけれど口を動かせない。
「妻が香水をつけているかは知らない。僕は小桃李の丁寧な仕事ぶりを評価しているし、小桃李が作ってくれる食事は何でも美味しいと思ってる。女性は美貌が全てみたいに思っているみたいだけれど、全ての男が美貌に惹かれるわけじゃない。美貌の価値だって様々だ。
そして、僕は小桃李の身体が目当てなんかじゃない」
そこでやっと彼は手を離した。けれど、その後に続いた言葉は辛辣だった。
「小桃李の方こそ…ただ背徳感を求めているだけなんじゃないのか? 自分こそスリルを味わいたいんじゃないのか? いつかもっと若い、まともな彼氏が現れたら、簡単に僕とのことなんかなかったことにするんだろう?」
「…そんな!」
#26へつづく