【連載小説】奴隷と女神 #35
梅雨入りしてしばらく経った。
響介さんとは直接会話をする機会がなく、裁判がどのように進んでいるのか、あれからどうなっているのかを知る由もなかった。
そんな時、
「小桃李、ちょっと」
業務時間中、環がやって来て手招きした。
「なに、どうしたの?」
「ちょっと来て」
そう言ってフロアのトイレに私を連れ込んだ。
「トイレに呼び出しってちょっと怖いんだけど」
冗談で言ったつもりだったが、環がおどけることはなかった。
化粧スペースに誰もいないことを確認すると、環は身体を寄せて声を潜めて言った。
「西田部長、離婚するかもって話、知ってる?」
「えっ…?」
まさに肝が冷えた。
「どうしてそれを私に…?」
環はため息をつく。
「前に “見なかったことにする” って言っておきながら、やっぱりずっと気になってて。あれ以降の小桃李、たまにどっか心飛ばしてるし、かと言って合コンの後も何もないみたいだし…。そうかと思えば何だか髪も肌も綺麗になって絶対恋してるでしょーって思うことあって…。それってやっぱり言えないからなんじゃないかって」
「…」
「ごめん、そんな風に疑ってて」
ここで肯定してはいけない。これまで耐えて来たものが全部水の泡になる。
「ほんとに誤解だから…西田部長とは何でもないの」
「小桃李のために離婚を進めてるのかと思った。案外潔いとこあるんだなって」
私は黙って首を横に振った。
「それにしてもそういう噂、どうして行き交ったりするの?」
環はチラリと私を見る。
「我が営業支援部は営業戦略部と上下関係の組織であるから、誰がどうなってるとかいう話はよく流れてくるのよ。小桃李も以前いたんだからわかるでしょ?」
「…」
「最近西田部長、休みや離席が多いって話から実は離婚裁判中だ…って漏れ聞こえてきて…さ」
「そう…だったんだ…」
環はじっと私の目を見つめたけれど、逸らさずに耐えると小さくため息をついた。
「いいわ。ごめん。関係ない話でわざわざ呼び出しちゃって」
「ううん…。環の方はどうなの? 合コンの彼? それとも青山くんかな」
「ちょ…っ! 今その話する?」
「ごめんごめん。また改めよ」
何とか凌ぐことが出来、自席に戻って深く息をついた。
それにしても社内でそういう話が出回ってしまっているのかと思うと、悲しくなった。
* * *
7月。梅雨明けまでもう少しかというところ。
午前中に行われた部長会の議事録ページを開いた。
議事録をバトンタッチしてから、キムさんの起こす議事録に毎回目を通してる。
もちろん後輩の作業チェックというよりは、響介さんがどんな事を話したのか読むため。
今はそうすることが “生存確認” だった。
「松澤さん、毎回チェックありがとうございます。おかしなところがあったら指摘してください」
キムさんが隣から声を掛けてきた。
「チェックだなんてそんな。私は会議に出席してないのだから、チェックも何もないですよ」
「日本語がおかしいとかあるかもしれません」
「キムさんの日本語はむしろ日本人以上に丁寧だから、安心してください」
そう言うとキムさんはニッコリと笑った。
「部長会、いいですよね。会社の実行部隊の長が集まって、時には熱い議論になって。会社がどんな方向に舵をきろうとしているのか、どんな戦略で競合他社と戦い、戦法を組み立てていくのか、ありありと体感出来ます。僕が議事担当として出席出来るだけですごく光栄だと思っています」
「そうだね…」
キムさんは本当に真面目なんだな、と思う。響介さんに対しても常に敬意を崩さなかった。
「キムさん、最近は西田部長と飲みに行ったりしてるの?」
「いえ、松澤さんと一緒に行って以来はないです」
「そっか…」
「今日、どうですか?」
「えっ?」
キムさんが響介さんを誘って行くのかと思い、驚いて声をあげた。
「西田部長は誘えないですけど、今日一緒に晩ご飯食べに行きませんか?」
あ、誘えない、のか。
「誘ったらいいのに」
「僕からは誘えません。それに急だと迷惑かかります。西田部長とはまた今度一緒に行きましょう。松澤さん韓国文化お好きって言ってましたし、韓国料理食べに。どうですか?」
一瞬、男の人と2人で行くのは憚られた。
それに響介さんがもし知ったら…どう思うだろう。
「…だめですか」
「2人じゃないとだめかな」
「あ、そう言うことだったら垣内さんにも声掛けましょうか」
「うん、韓国料理だったら数人で行くのがいいな…」
キムさんは特に嫌な顔もせず「わかりました」と言って席を立った。
だが結局垣内さんを始め他の人の都合が合わず、仕方なく環を誘うことになった。志帆は残業がちのため、今回も都合がつかなかった。
「ごめんね、キムさん面識ないのに私の同期呼び出しちゃって」
「いえ、いいんです。松澤さんのおっしゃる通り、みんなで食べた方がいいです」
「キムさん初めましてだね。小桃李の同期で営業支援部の岸川です。今夜はよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
そうして会社の近くにあるサムギョプサルの美味しいお店に行った。
「んー! やっぱりたまに食べると美味しいね~脂は!」
環はだいぶご満悦だ。女同士ではなかなか脂まみれになる料理を選ばないけれど、やはり焼肉は正義なんだと言う。
「キムさん、日本は長いの?」
「僕はもうすぐ8年になります」
「さすが。日本語の発音も綺麗だもんね。じゃあ兵役は?」
「韓国にいた時に既に終えています。それで日本の大学に入り直して就職しました」
「そうだったんだー」
しばらく環とキムさんの会話が続いた。私は黙ってチョレギサラダを食べていた。
「キムさんは小桃李とこうやってご飯食べに行ったりしてるの?」
「いえ、2人ではありません。ですがこの前、西田部長と3人では行きました」
しまった、と思う。響介さんの名前が出たので環の眉がピクリと動いた。
「あ、西田部長がキムさんの大学の先輩で、西田部長から誘って来たんだよね?」
なんだか言い訳がましくなってしまい、かえって肝を冷やした。
「そうなんです。大先輩です」
「ふーん。どんな話したの?」
どうしてそんな事を訊くのかと思う。けれど別に3人で話したことは何もやましいことはない。
キムさんもその辺は当たり障りのない回答をした。実際、当たり障りのない会話しかあの場ではしていない。
「今度は私と、もう一人ウチらの同期がいるから、そのメンバーも誘ってよ、その会」
環の言葉は挑戦的だった。キムさんは ”是非“ なんて言っている。
#36へつづく