【連載】運命の扉 宿命の旋律 #19
Aubade - 夜明曲 -
古い団地にはインターホンがなかった。萌花は意を決してチャイムを鳴らす。
「どちらさまですかー?」
中からあどけない女の子の声が聞こえた。
「あっ、あの…」
返答に戸惑っている内に、中から再びドア越しに声がする。今度は女性の声だ。
「陽菜、ありがと。向こうに行ってて。はい、どちら様でしょうか?」
「あ、あの私、りょ…あ、か、川嶋くんの高校の同級生で、川越と言います…。今日、川嶋くんが休んでいると聞いたので、心配になって…」
話しながら、それにしても家まで来るのはやり過ぎたか、と萌花は思った。
「稜央のお友達?」
女性は少し驚くような声を出し、チェーンを掛けたまま薄くドアを開けた。
顔を出した女性を見て驚いた。
多分母親だと思うが、余りにも若く美しかった。
「稜央、学校に行ってないの…?」
しまった、と思った。稜央は学校に行くフリをして外に出ていたのだ。
「あ…あの…」
萌花が戸惑っていると、チェーンの外れる音がしドアが開いた。
「良かったら中で待ってる?」
「あ、で、でも…」
母親の足元で、こちらを興味深そうに見る女の子がいた。稜央が話していた、父親の違う妹だ、と思った。
「どうぞ」
迎え入れるようにドアが開かれ、萌花は中に入った。
* * *
「こっち、稜央の部屋だから、ここで待っていてくれる? 片付いていなくてごめんなさいね」
玄関脇の部屋のドアを開いて母親が言った。
決して広くはない部屋の正面に窓があり、右方向から西日が差し込んでいる。
壁面はほぼ本棚で、床には譜面が散乱していた。辛うじて寝床だろうというエリアがぽっかり空いている。
窓辺に電子ピアノが置かれていた。
胸がギュッと詰まる。
「今お茶淹れるから、空いているところ座っていてね。本当に汚くてごめんなさいね」
「ママー、お兄ちゃんの彼女ー?」
閉められたドアの向こうでさっきの女の子の声と、コラ!という母親の小さなしかり声。
本棚の背表紙を見ながら部屋の奥に進む。音楽理論と名のつくもの、哲学書…。マンガなどは一切なく、高校生の本棚らしくはなかった。
やがて部屋の奥の電子ピアノにたどり着く。
そっと指先で触れる。
稜央が毎日、触れている鍵盤。
愛おしくて仕方ない気持ちになった。
ふと、そばの譜面の山に目をやる。
萌花はハッとして息を呑んだ。
一番上にあったのは、ラヴェルの『水の戯れ』だった。
夏休みの音楽室で、萌花のためにと弾いてくれた時をありありと思い出した。
稜央の声がイメージした萌花を語ってくれたこと、今まで見たこともなかったような、彼の照れた表情。
一つひとつ思い出して、萌花は泣きそうになった。
最近これをここで弾いたのはいつなんだろう?
“私と連絡を絶っている間だとしたら…私のこと考えてくれてた…?”
そうであって欲しいと萌花は願った。
「陽菜があげるー!」
ドアの外で女の子…陽菜の声がする。萌花は慌てて涙を拭った。
「だめよ、こぼしたら大変だから」
「やだー、陽菜がお客さんにお茶出すー」
そう言ってドアを開けて陽菜が入って来た。
盆を持つ手が震え、ぎこちない足取りに後ろで母親がハラハラと見守っている。
「はい、お茶をどうぞー」
陽菜が萌花の前にガラスのコップに注がれた冷たい茶を置いた。
「ありがとうね」
陽菜の目線に合わせて礼を言うと、陽菜はじっと萌花を見つめて言った。
「お姉さん、すごく綺麗ですね。お兄ちゃんの彼女ですか?」
すかさず母親が「コラ!陽菜!」と叱る。
陽菜を抱えながら「ごめんなさいね」と萌花に謝った。
「いえ…」
再びドアが閉まり、一瞬の静寂が訪れる。
“陽菜ちゃん、っていうんだ”
確かに、稜央とは全然似ていないと思った。
稜央もあのお母さんと比べると、色が白いところや背が高いところは似ているかもしれない。
でも顔のパーツは…目? 大きな目は似ていると言えば似ている気もするが…。
“稜央くんはお父さん似なのかもしれないな…”
知らない、興味もない、いらないと言い切った父親に、稜央は似ている。
萌花は切なくなった。
萌花はやはり稜央のことが大好きだ、と再認識した。
稜央の今後の態度が気になる。あんなことがあった後で、今までのように、幸せでいっぱいの日々が帰ってくるのだろうか。
日がだいぶ傾き、夕闇が訪れた。それでも稜央は未だ帰ってこなかった。
さすがにこのまま家にいるのはまずいと思い、帰ろうと立ち上がった時。
「ただいま」
玄関で稜央の声がし、萌花は驚いて身を固くした。
「今日は遅かったのね。お友達が来てるわよ」
「友達?」
母親との玄関先のやり取りの後で、部屋のドアが開いた。
立ち尽くす萌花を見た稜央もまた、表情を強張らせた。
「何…してんだよ」
困惑して声の出ない萌花の代わりに母親が言った。
「稜央、今日学校に行ってないんだって? 川越さん、心配して来てくれたのよ」
稜央はバツの悪そうな顔をした。
「お母さんご飯の支度するから、良かったら川越さんも一緒に食べて行ったら」
「ちょっと外に出てくる」
「外? もう暗いじゃない」
「こいつ送るだけだから。萌花、行こう。駅まで送る」
「稜央」
稜央は唖然とする萌花の手を引いて家を出た。
* * *
稜央の一歩後をついて萌花は歩いた。
まだ蒸し暑い9月の宵である。制服のシャツが汗で張り付いた。
稜央はずっと黙っていた。
怒っているのかもしれない、と萌花は思った。
「稜央くん…家に行っちゃってごめんね。お家にいると思ってて…」
「後で母さんに怒られるな」
顔の見えない稜央の声色に棘は無かったが、明るくもなかった。
だが、
「話って何」
その言い方はぶっきらぼうだった。
「ずっと連絡しなかったこと…ちゃんと話さないと、と思って」
「嫌だったんでしょ」
冷たく言い放つ。
「嫌っていうか…」
「あんなに萌花が拒否ったのに俺、押さえつけて。口まで塞いで。レイプみたいだったなと思って」
萌花は何も言えなかった。
「毎日くれてたメッセージは来なくなるし、音楽室で待ってても来ないし、挙げ句には新学期一日目に無視されて。これでもう嫌われた、終わったと思ったよ。そうだろ?」
「ち、違うよ…」
「何が違うんだよ。俺だって男なんだよ。身体が欲しいって思うんだよ。俺は萌花のことが好きで…」
そこで稜央が立ち止まり、言葉を詰まらせた。
「大好きだからしたいって思ったんだ。でもどこでって。あそこしかないじゃない、俺たちが2人になれるところ」
「稜央くん…」
「萌花のこと欲しくて欲しくてたまらなくて。でも萌花はあんなに嫌がって。なんでなのかわからなかった。俺のこと大好きだって言ってくれてたのに。後で考えて、俺が下手くそで最低なやり方したからだって思うようになって…もう取り返しつかないって」
萌花は心の中で否定した。
稜央が思ってることは全部違う。
「稜央くん、違う…そうじゃない…」
「だから何が違うんだよ!」
振り向いた稜央の目は赤くなっていた。
「取り返しつかなくなんかない。あの時私…初めてだったし、学校だったし、床で身体が痛くて…稜央くんも何だか怖くて…それで…今はやめて、って思ってた」
萌花は稜央を抱きしめた。
彼の身体はこんなに細かったのか。そして夏なのに冷たく感じた。
「稜央くんのこと大好きだし、稜央くんにならいいって思ってる。私が子供っぽいだけ。シチュエーションとかタイミングとか、そんなことばっかり考えてて…」
萌花は抱きしめる腕に力を込めた。
「メッセージしなくなってごめん。目が合った時そらしちゃってごめん。どうしていいかわからなかったの。もうしないから。稜央くんが好き。大好き」
「萌花…」
稜央も萌花の背中に手を回し、強く抱きしめた。
「こんな俺で本当にいいの? あんなことして…普段からわけわからないこと言うしひねくれ者だし…俺のせいで萌花も周りから変な目で見られてること、俺も気づいているんだ…それなのに、いいの?」
「いいもなにも! 誰が何と言おうと、稜央くんが好き。あなたのいいところ、みんなが知らないだけ。でも知らなくていい。私だけの稜央くんでいられる」
駅前の灯りが滲む。
抱きしめ合う2人を宵闇が包んで隠してくれた。
#20へつづく