【シリーズ連載・Guilty】Unbalance #13
~紗都香
しばらく重い沈黙が流れた。
夫が色目で遼太郎くんに接触したのかもしれないなんて。
思わず両腕をさすった。
「僕も気が変わったんです」
先程までとは打って変わって、穏やかな表情で遼太郎くんは不意に言った。
「気が変わった?」
「旦那さんがあんな事しなければ、そもそも僕はあなたに再び会うことなどなかったし、思い出しもしなかったでしょう」
「ただ浮気がバレただけだったら…フェイドアウトするつもりだったのね…」
「だってお遊びでしょう。面倒な事にだって巻き込まれたくない。紗都香さんだってそのはずだったのでは?」
「そうね、責める資格はない。でも私にとって遼太郎くんは特別だった。遊びを飛び越えて特別になっていった。まだまだ世間の荒波に揉まれ慣れてないような青さ十分に残しているなりなのに生意気で図太くて怖いもの知らず、セックスもすごく上手…でもどこか脆くて翳を抱えている。その翳が何だかわからないままだったけれど…あなたのそんなアンバランスなところにすっかり魅了されてしまったのよ」
普段はロックでも威勢よく飲み干す遼太郎くんだったけれど、今夜はグラスを静かに揺らし、氷を少しづつ溶かしながら口をつけ、ゆっくりと味わっていた。
出会った最初の夜、彼の唇を濡らしていたのは琥珀色のウイスキー。今夜は透明で香り高いジン。
「それで…最終的に夫はあなたに何か言ったの?」
「俺のボコボコの顔を見て "それにしても紗都香のやつ、とんでもない玉を捕まえたな" と大声で笑いました。そして "僕が君の顔をそんな風にしたことを紗都香が知れば、二度と君と会おうとはしないだろう。もうおしまいだよ" とも。僕は "俺の口から彼女に今日の全てを話す" と言ったら再び顔を張って "だから紗都香はもう君とは二度と会わない、と言ってるんだ" と言いました。そして目の前で担当者変更の連絡をさせられた次第です。そう言いながら今日、こうして顔を合わせてますけどね」
そう言ってグラスに口を付けると、思いがけずこちらを見て微笑んだ。
なぜ、そんな風に笑うの…?
「夫は、私たちが再び会うような事があれば、遼太郎くんに危害を加えると私が考えると、思っているのよ。私のせいで…あなたをとんでもない目にあわせてしまったわ…」
「誘いに乗ったのは僕ですから。火の粉がかかったって当然でしょう」
「じゃあ…何故その最初の誘いに乗ったの? たくさんガールフレンドはいるようだし、私が歳上だからって何をせびるわけでもないし…、ましてや面倒なことに巻き込まれたくないのなら…私の何が良かったのかさっぱり…」
誰でも良かったのだろうけれど。それも含めて彼は答えないと思った。
けれど。
「もちろん、最初はあんなアプローチされたので、その気にさせておいて突き落としてやろう、くらいに思っていました」
「やっぱり…怖いわね…」
「ですが、会ううちに引っ掛かっていたというか…。紗都香さんはキャリアウーマンで公私共々充実しているように見せておいて、実はそんな自分に満足していないように見えた。そんなところは僕と似ているかもしれないなと思ったら、何だかズルズルと」
意外な言葉だった。
「私が…遼太郎くんと、似ている?」
「僕は誰彼構わず寝るわけじゃない。ちゃんと選んでいます。かわいくても軽くて頭の悪い輩は論外。まぁそもそも顔で選んだりはしませんけどね。クセのある女性は都合がいいです。後は…本気で好きにはならないだろうという女性を選びます」
「どういうこと…? 好きな人とこそ…じゃないの?」
「僕は…」
そこで初めて彼の表情が揺らいだ。その先を続けるのを躊躇っているようだ。
「僕はクズ男ですからね。そんな男が寝る相手を選んでいるなんて、何様なんだと笑いますよね」
そう言うと、今しがた浮かべた惑うような表情は引っ込んだ。触れさせてはいけない片鱗を見せた、そんな感じだった。
「遼太郎くん…」
「選んでいるんです、僕は…」
「もう、いいわ」
「…」
「好きにならない女性を選ぶだなんて、やっぱりちょっと傷つくけれど、でもだからこそあなたと交われたんだものね。それに似ているだなんて。おかしいけど…ちょっと嬉しい」
遼太郎くんは複雑な表情でグラスを傾けた。
「あなたはただ単に女性を傷つけるために遊んでいる愉快犯なわけじゃないのね。女性を通して、探っているのよ」
「探る? 何をです?」
「あなたが探している答え、あるいはまっさらな自分自身を」
遼太郎くんは驚いた様子で目を見開いた。何かを言おうとしたけれど、何も言わなかった。
「…ね、どうして今日は "Jazz Club" を付けてきてくれたの? 普段使いなんだっけ」
「紗都香さんに会う前に付けました。それはたぶん…」
「たぶん…なに?」
「たぶん、あなたと会う時の、習慣です」
その瞬間、まるで少女のように胸がキュっと締め付けられた。
愛しさがそこはかとなくこみ上げる。
けれどもう、これ以上はお互い、よしとしない。
夫を刺激しては、いけない。
「…嬉しかった。ほんのひとときの恋人だったとしても。大変なことになって遼太郎くんにはとんでもない迷惑をかけたけど…それでも…魅力的なあなたに相手してもらえて、嬉しかったわ」
「これからどうするんですか」
「そうね…どうしよう」
「旦那さん ”一度くらい結婚も経験しておくといい“ って仰っていたんでしたっけ」
「えぇ、そうね」
「だったら、一度経験したんだからもういいんじゃないですか。何なら離婚も一度経験しておくとか。まぁ結婚より労力が要ると聞きますけどね。結婚の経験はおろか、むしろする気もない僕が言うのもおこがましいですが」
確かに、ひとりに戻るにしても容易ではないかもしれない。子供がいないのが幸いだが。
やはり始めから結婚なんかしなければ良かったのだろうか。
「遼太郎くんは結婚する気ないんだ」
「ありませんね」
「まだ25だっけ。今はそう思っても何があるかわからないわよ、私みたいに」
遼太郎くんは鼻で小さく嗤って「そうですね」と言った。
「改めて、ありがとうね」
礼を言うと遼太郎くんは少し驚いた様子で、目を私に向けた。
「この先もその "Jazz Club" を嗅ぐ度に、必ず遼太郎くんのことを思い出すわね。匂いと記憶って、密接に繋がっているでしょう?」
「で、あれば僕はこれからは無臭でいた方がいいな」
「どうして」
「誰の記憶にも残らない」
「何を言ってるの」
私は笑った。彼も、フフっと。
けれど、悲しい言葉だった。
***
ジャカルタにいる夫に電話をかけた。浮かんだ疑惑を確かめようと、それとなく話を振ってみようと思ったからだ。遼太郎くんから聞いたということはもちろん伏せなければならない。どう、さり気なく引き出すか。
その時、夫はアルコールが入っているようだった。商談がうまく行き気分が良いらしい。
しばらく他愛もない近況話が続き、『ボーイフレンドの方はどうしてる?』と訊いてきた。
「野島さんなら、本当にもう会っていないし、会うこともない。担当も別の方に替わったし、接点はないわ。本当よ。安心して」
『アイツじゃなくて、他には』
「他って…もう…いいの。今は誰とも」
『あの生意気美青年以上の男はさすがに現れずに、紗都香も落胆してるというわけか』
「そうじゃないわ」
電話の向こうで夫は笑って『彼は元気にしているのかな』と言う。チャンスだ。
「…知らないわ。どういうこと?」
『いや、ごめん。深い意味はないよ。あの時、僕が彼に会った時、だいぶ酷い顔にしちゃったから』
「あなた…一歩間違えたらそれは…そんなに酷くしたの?」
『奴のプライドをズタズタにしてやりたかっただけだよ。チャラいだけだったらまだ可愛げもあって、ちょっと脅してやればあんな若造、草食動物のように退散するものだが、あの男は違った。まともな防衛本能が働いていない。狂ってる。女性のことも軽んじ過ぎだ。そんな奴に君がのめり込んで行くのは無性に腹が立った』
腹が立った…? 純粋に?
「その…野島さんだけどうしてそんな目に合わせのかも、気になったの。だって私が多少遊んでいること、あなた知っていたはずなのに…どうして彼だけが…って」
『本気で妬いたのかもしれない。僕らしくもないな、大人げない』
つまり、浮気の代償として懲らしめただけで、バイセクシャルではないということ?
彼に特別な関心があったわけではないってこと?
「あなた…」
『紗都香、遊ぶなとは言わない。けれどあの男とは二度と会うな。これからも現れてくるかもしれない、君を魅了する男が。何なら僕が可能な限り相手をチェックしてもいい。僕が何とも思わなければ、君は自由でいいんだよ。こうして一人の時間がたくさんあるのだから』
「そこまでして…」
この人は私を妻として置いておきたいのか。
私や遼太郎くんの想像は、的外れだったのか。
それはそれで、どこか安堵する自分がいた。
「もう…遊んだりなんかしないわ。私だって歳を取ったし」
『やめてくれよ紗都香。君は実年齢よりも相当に若々しくて、反面とても凛々しい。僕がみんなに自慢したいくらいなんだから』
俄に信じられないような戸惑いを覚えながら、夫の笑う声を聞いていた。
よほど気分が良かったのか、海の向こうで開放的になっているのか、珍しく酩酊した様子で、やや怪しくなった呂律で夫はこう言った。
『でもまぁ、彼はあれだね、イケメンな上に滑らかな良い肌してるんだね。細マッチョっていうのかな、バランスが良い身体だった。腕と足首にさぁ、
いい感じで血管が浮き出ていて、そそられるんだよなぁ。それにいいモノも持ってるときた。なかなかいないたまだよなぁあれは。あれじゃあ女はひとたまりも無いとよくわかったよ。あぁいう男を成敗できると気分が良いんだがな。綺麗な顔が苦痛と悦で歪むのがどんなに美しいか、君にはわからないだろうなぁ』
そして、大きな欠伸をした。
*
私はこの先の人生をどうするのか。
わからない。
波が襲いバランスを失って倒れていく、棒倒しの砂山みたい。
そんな感覚。
そう…築いてきたのは砂山だったみたい。ざらりと冷たい砂が指の隙間に残るような不快感。
そもそも私は何かを築きたかったわけではなく、むしろ波の方に棲む人間だったはず。いつも流れ流れ生きながら、どこかで繋ぎ止めてくれる誰かをいつも求めて、そのくせ、繋ぎ止められると流れていきたくなる。
報いなのか。
Unbalance.
目を閉じた。
#14(最終話)へつづく
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