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【連載小説】奴隷と女神 #30

「…離婚…?」

「おそらく調停か裁判になる。すぐには片付かないと思う。だから方向性が見えるまでは話さないでいようと思ってたんだけど」
「そ、それって…私のために…?」
「元々はそうじゃない。少し前から考えていた。でも」
「でも…?」

響介さんは再び指先で私の頬に触れると続けた。

小桃李ことりの存在が背中を押した」

信じられない気持ちだった。響介さんが離婚する…?
本当に?

「…なんて言って別れるんですか。私とのことが理由になるんですか?」
「彼女も人のことは言えない立場だから」
「えっ…!?」

そこで初めて、私は響介さんの結婚の経緯を聞いた。

「彼女は僕より3歳上で、彼女が1年留学した関係で大学では2つ先輩にあたる。同じゼミにいたけれど、彼女のことはうっすらと知っているくらいだった。それで7年ほど前、仕事絡みの会合に偶然彼女がいて声をかけられた。すぐに猛烈にアプローチされ、既成事実を作られて、僕は彼女と結婚することになった」
「既成事実っていうのは…」
「妊娠だよ」

胸を鋭く差す一言だった。響介さんに子供がいた…?

「妊娠したと告げられ、結婚を迫られた。僕もいい歳だったし腹の括り時かと思った」
「響介さん…子供がいたんですか?」
「いや…結局流産して」

ショックの波が次から次へと押し寄せる。

「以降彼女は子供は欲しくないと言い出した。後で妊娠は結婚のための既成事実で、彼女は産む気がなかったと知ったが」
「そんなこと…出来るんですか?」
「やってくれたよな、彼女は」

響介さんは淡々と話したが、私はさっきからずっと心臓が破裂しそうなほど大きな鼓動を立てている。

「そんなことの後、彼女は転職した。それが今のコンサル会社だ。彼女は英語も堪能だから多くのプロジェクトに積極的に参加した。元々キャリア志向が強かったんだ。だから彼女は妊娠を望んだわけではなく、僕との結婚のために策を凝らしたんだろう」
「そこまでして…奥様は響介さんを…」
「学生の頃からあなたのことが好きだった、と言われた。本当かどうかは知らない」

まさに響介さんの奥さんは月 - Luna - の女神となって、ゼウスの息子の中でも一番の美貌を持つEndymionを手に入れたということなのか。

「それなのに奥様は…浮気をされていたんですか」
「彼女は自由な人なんだ。美しいし金も持っている。それで何でも出来ると思っている。若い男もまんざらじゃないんだろうし」
「…」
「とにかく多忙な彼女は会社に泊まり込むのか帰ってこないことも多いし、海外のプロジェクトでは短期・中期で滞在することもある。前も話したように料理を始め家事はほぼやらない。結婚生活というものを、僕自身はほとんど感じたことがない。2年目を過ぎた頃、こんな生活が続いていくのかと不安になったけれど、どうすることもせず時が流れてしまった」

「奥様がご自身の流産をしてまでも響介さんと結婚したというのに、どうしてそんな…信じられないです」

「釣った魚には餌をやらないタイプなんだろう。元々末っ子のお嬢様育ちだからね。今の家や車だって彼女というか、彼女の実家のお陰だ。欲しいものは何でも手に入れられる環境で育って来たんだ。だから僕のことも…」
「…」
「彼女はただ僕を手に入れることが目的だったんだろう」
「それって…本当に…LunaとEndymionじゃないですか…」

悔しかった。
そんなこと出来る女性がいるなんて。
女神って最強なんだ。

「夫婦なのに…おかしいです、そんなの」
「だから、離婚を決意した。むしろやっと決意できた」

響介さんの指先はずっと私の頬を撫でている。

「響介さん前に…遊んではいたけれど、恋に落ちたことはないって言ってました。でも奥様とは恋に落ちたんですよね? だから結婚されたんですよね」
「いや…僕は彼女に恋なんかしてないない」
「…どういうことですか?」

彼は遠くを見つめた。

「恋に落ちる前に既成事実が出来たから」
「…恋もしていないのに…。奥様も最初は遊びだったってことですか」
「まぁ軽い気持ちだったのは確かだ。軽蔑した?」

私は首を横に振った。

「その後も恋に落ちたりしなかったんですか、奥様に。一緒にいたら愛情も生まれるものかと…」
「どこで落ちるべきだったんだろう。きっかけを見失った。さっきも言ったように結婚のきっかけになった子供はすぐになかったことになったし。その後は彼女の好き放題だったから」
「…」
「小桃李の言葉を聞いて思ったんだ。僕だって彼女の奴隷だったに過ぎないってね」

ハッとして彼の顔を見つめる。

「帰る家に僕がいて、彼女の望むことに僕は従うだけ。信じられないかもしれないけれど流産以降は彼女とはまともなSEXをしていない。僕をギリギリのところまで高めておいて突き放すんだ。そういう哀れな僕を見るのが彼女の悦びでね。おかしな性癖だろう? そうなると僕もどうしようもなくて、他所で息抜きをするようになった」

「それを…ずっと我慢して生きていくつもりだったんですか?」

「いつか爆発しただろうけどね。気がつけば6年経っていた。どこか割り切って、醒めた気持ちしか残っていなかった。そんな風に諦めていた人生に、小桃李が現れた。そりゃ世間からは不倫と言われる、決して堂々と胸を張れる状態ではない。けれど」

「…けれど?」

「出逢った順番を悔やむなら、軌道修正することは出来る。もちろん代償は大きいかもしれない。でも僕もいつまでも檻の中にいるわけにもいかない」

「どうしてそこまで私が…」

「小桃李は色んな表情を持ってるからな。仕事中の大人しくて真面目な顔、同期といる時の少し遠慮した顔。僕といる時はもっと様々だ。ご飯を作ってくれている時はちょっと緊張して、でも一生懸命で、出来上がると少しドヤ顔になって。お酒が入ると子供みたいにあどけない顔になったりして」

「ドヤ顔してすみませんでした…」

「それがベッドの上では女になる。それも狂おしいほど綺麗な。
もっと見たい。どんな顔をするのか。そう思い始めるのは早かった。今までの遊びと何が違ったんだろう。不思議には思う。
ただ、僕がどんなに小桃李のこと『好きだ』と返しても、小桃李が嬉しそうにするのはほんの一瞬で、すぐに切ない顔する。不安なのか、怯えているのか…。そのあと僕がどんなにキスをしても深く抱いても、心から嬉しそうにはしてくれない。僕の言葉を刹那としか捉えてくれないんだと思うと苦しくなった」

「…」

「言い合いになった時、小桃李言ったよね。"自分だけ誠意を示してるつもりみたいだけど、奥様と離婚してって言ったら、出来ないでしょ" って。僕はそこで決めたんだ。じゃあ僕はなぜ今の結婚生活を続けているんだ? って。小桃李といた方が、どれだけまともな暮らしが出来るだろうって。それならもう言葉だけでは限界だ、態度で示すのだと」

響介さんは残りのハイボールを最後まで飲み干し、音を立ててグラスを置く。

「だから、僕は奴隷の檻から抜け出す」

そして優しく私を見た。

「時間はかかるかもしれない。今は何も約束は出来ないし、小桃李に待っていてほしいとも言えない。小桃李の時間は小桃李自身のためのものだから。オマケに僕は今フラレている身だからな。偉そうなことは言えない」

そう言って笑った。

「恋活、上手くいくことも願ってるよ」
「本気で言ってますか」

すると響介さんは笑顔を潜めて言った。

「本気なわけないだろう」

「また、響介さんの、悪い癖…。すぐそうやって、冗談言って…」

うっ、と嗚咽がこみ上げた。

「出よう」

すかさず響介さんは私の背に手を当て、立ち上がった。




#31へつづく

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