【連載小説】奴隷と女神 #5
「そろそろ、突撃しちゃおうか」
こちらのワインのボトルが空いたところで環が切り出した。振り返ると部長たちも盛り上がっているようだった。
その中で末席の西田部長は、壁一枚隔ているというか、いまいち輪の中に入ってないような様子だった。気を遣っているのだろうか。
「いきなり3人で行くのは、ちょっと…」
「何よ志帆。わかった。じゃあ一旦私が上司を見つけた体で話しかけてくるから。2人ともちょっと待ってて」
そう言って環は席を立ち、果敢にも部長グループの方に向かっていった。
「環じゃなきゃ出来ないよ」
志帆が苦笑いする。そうだね、と私も付き合い、振り返って様子を伺う。
ちょうど環が自分の上司の桜井部長に話しかけ、大きな声が上がっているところだった。
環がこちらのテーブルを指さしたからだろうか。
西田部長がこちらを見た。
目が合った。
一瞬で身体の芯が熱くなる。
彼も驚いたように目を見開いてこちらを見ている。
「小桃李、志帆、こっち来ていいって!」
環が手招きする。やれやれ、と言った表情で志帆が席を立った。私も続く。かすかに脚が震えていた。
「お前たちのテーブルの分は自分たちで会計しろよ」
テーブルに近づくと桜井部長が冗談ぽく環に言う。
え~いいじゃないですか~と、部長の肩をポンと叩くフリをする環。
部長グループは5人いて、店員さんが2名席を更にくっつけて3人分のスペースを作り、元の席の伝票とグラスを運んでくれた。部長たちは気遣ってか、真ん中にスペースを空けてくれた。でもそれは2席分。
私がどこに着いたらいいか戸惑っていると、思いがけず西田部長が「ここ、座りますか?」と自分の隣の席を指した。
「えっ? あっ、すみません、では、お邪魔します…」
彼の隣に座る時、やはりふわりと香った。
少し気怠さのあるレザーを僅かに残しつつ甘みを足したような香り。
いつも付けている香水のラストノートなのだろうか?
緊張して、顔が上げられなくなる。
「小桃李、どうしたの? まさかもう酔ったわけじゃないよね?」
環が声をかける。
「あ、うん。大丈夫」
「しかし君たち同期は本当に仲がいいね。6年目だろう? 今は部署も違うのに未だに同期で集まっているなんて羨ましい」
「俺たちの同期なんかもう蹴散らし合いだからな」
別の部長たちがそう言ってみんな大笑いした。西田部長だけがただ口角を少し上げただけで、どことなく醒めた風に見ている気がした。
なんかこの人、私に似ているのかな。
環や志帆が他の部長たちとマッチングアプリの話題で盛り上がり始めた頃、
「松澤さん」
西田部長が不意に私の名を口にした。
「は、はい!」
驚いて顔がこわばったかもしれない。
西田部長は恐縮した様子で「いやいや、松澤さんいつもびっくりしすぎだよ」と少し笑われてしまった。
恥ずかしくなって頬に手を当てる。
「いつも会議室のセッティングやら議事録など、ありがとうございます」
思いがけず彼は私にそんなことを言った。
「あ、いえ…。仕事ですから…」
そう言うと西田部長は「それはそうなんだけど」とまた少し笑う。
「松澤さんは丁寧な仕事をする方だなって、ずっと思ってたんですよ」
「えっ、私が、ですか…」
「議事録も今までよりも早く上がってくるようになったし、何かと応対も丁寧で早いし」
そんな風に褒められるとは思ってもみなかったので、更に緊張してどうしたら良いかわからず俯いてしまう。
そんな私を見て西田部長が何か言いかけた時に、環が声を挙げた。
「西田部長の奥様って、そんなにすごい方なんですか~!」
瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
“奥様”って今、言ったよね。
「西田くんの嫁さんは外資系コンサルタントで、海外を飛び回ってるバリバリのキャリアウーマンなんだよな」
桜井部長が付加情報を与えた。突然話を振られた西田部長は戸惑い、どう返答していいかわからない様子だ。
「しかも姉さん女房で。だからちょっと尻に敷かれ気味でな」
「確か学生時代からの知り合いで、偶然再会していきなり結婚したって言ってたよな? どれくらい付き合って結婚したんだ?」
部長たちから容赦ない言葉・質問攻めに合う。
西田部長は気まずそうに「3ヶ月です」と小さな声で答えた。
「えぇ~、すごい! スピード婚じゃないですか~! ビビッと来ちゃった系ですか~。西田部長もお若いのに部長職就かれてますし、すごいキャリアのご夫婦なんですね!」
環のよいしょも止まらない。
そうか、彼の左手には指輪がない。
それに普段の格好…この黒スーツ姿から勝手に独身貴族であると思い込んでいた。だから無意識に警戒心を持たなかった。
思いの外、私はショックを受けていることに気づく。
あれ、そんなに私、この人のこと…。
こっそりと見上げた彼の横顔は、元の居心地の悪そうな表情に戻っていた。
#6へつづく
【紹介した店:ISOLA ESMERALDA】