【連載小説】鳩のすむ家 #1 〜"Guilty"シリーズ
〜福永由珠子という名の女子高生
鳩が3回、鳴く音を聞いた。
また、まだこの時間に意識が覚醒していると憂鬱な気持ちになる。毎晩毎晩、憂鬱な気持ちになる。
1階の居間で刻を告げる鳩。
祖母が子供の頃からあるという鳩時計。
幼い頃、夜中にその鳩がぽっぽーと鳴くのがうるさくて眠れないと家族に訴えても “すぐ慣れる” “寝てしまえば気にならない”と言われ取り合ってもらえなかった。むしろ平気な家族の鈍感っぷりが信じられなかった。
大した調度品でもないのに、こんな時代遅れの鳩時計、何をそこまでして鳴かせ続け、守り抜いているのか。
一晩気付かずに熟睡出来る夜もあるが、季節や環境の変わり目や気掛かりな事があると、こうして目が覚めてしまう事が多い。
家中の灯りが落ち、1回鳴きぼんやり目を覚まし、ウトウトし始めると2回鳴き、その日にあった祖母とのやり取りを思い出しイライラすうるうちに3回鳴くのを聞く。
何度も寝返りを打ち、ため息をつく。
それでも4回、5回は聞こえていないことが多く、大体いつも明け方が熟睡どきだ。
6時には祖母が起き出し、階下で朝の身支度をする音で目を覚ます。
目覚ましの鳴る30分前。
***
「みなさま、ごきげんよう」
「ごきげんよう。新学期にまた」
校舎を後にし三々五々、学園の女生徒たちは都心の雑踏に紛れていく。
満開は未だと聞いているが、校内の桜は時折風に流れ、ポツポツと地面に花びらを落とす。
その淡い模様を学校指定の黒いローファーで踏み、私は一人で校門を後にする。
今日で高校2年生が修了した。
寄り道は基本禁止のため最短ルートでメトロと私鉄を乗り継ぎ、まっすぐ家路へと向かう。基本、というのは、高校からは学校が承認していれば習い事に限り可能になっている。中学までは寄り道一切禁止だった。当然、アルバイトは禁止。
電車に乗れば別の学校の制服姿に出会う。彼女たちの足元の茶色いローファーや、カッコいいデザインのスニーカーがひどく羨ましく、いつも足元ばかり見ていた。自分にはこの黒いローファー以外にはくすんだ野暮ったい運動靴しかなく、こんな足だから何処へも行けず、何も感じないと思っていた。
*
幼稚園から大学まで、世間でも名の知れたお嬢様学園。
私はそこに小学校から既に11年間通っているが、何と言うか私は、生粋のお嬢様ではない。
だから生粋のお嬢様たちの会話について行けない事が多く、聞き役に回りがちだ。自分の話なぞとても出来ない。だって私はただお堅い家というだけで、彼女たちのような優雅な育ち方はしていないのだから。
それでも彼女たちは
「福永さんって本当に聞き上手ね。わたくし思わずたくさん話してしまいますわ」
「福永さんもご自分のお話をもっとなさってよ。せっかくのクラスメイトなんですもの。もっと知りたいわ」
なんて言ってくる。それは決して嫌味ではなく、心の底からそう思っているようだ。
生粋のお嬢様は、嫌味を言ったりマウントを取ったりする環境に身を置いていない。そもそもそんな術を知らない。私のように卑屈になったりしない。
育ちが違うのだから当たり前なのだが。
私がそんな学園に通っているのは、単純に祖母が卒業生だからだ。
『福永』なんて苗字の字面は縁起が良さそうだけれども、親戚を見渡しても決して上流階級なわけではない。同級生たちが持つような家系図はあり得ないことは明白だった。ただ祖母にとっては相当なステータスだったらしく、私も否応なしに通わされた。
我が家で一番の権力を持っているのはその祖母で、それに頭が上がらず「お母さんのためなんだから」が口癖の父と、恋愛結婚したものの騙されたと思っている母、そして一人っ子の私。
跡継ぎの男の子を産めなかった母は、祖母からは「使えない嫁」などいつも嫌味を言われていた。それでも離婚しないのは母方の両親…つまり祖父母は既に他界しており、帰る場所がないからなのだと思う。そんな母をかわいそうだとは思わない。私は昔から祖母の所有物だった。母は母らしいことを、あまりしてくれなかった。
父は一応会社経営者であるが、その実は零細企業だ。にも関わらず私のことを何かと "社長令嬢" とタグ付けしたがる祖母。
だからそれ相応の振る舞いをなさい、そうでないと良いお婿さんが来てくれないわよ、と時代にそぐわない "箱入り娘" をでっち上げるのに祖母は躍起になっている。
鳩時計は鳴き続けているくせに、この家の時はどこかで止まってしまっている。
息が詰まるほど停滞している家。
この息苦しさから逃れる方法は果たしてあるのか。
*
帰宅し2階の自室に上がろうとすると、奥の和室からすかさず祖母の声が飛んでくる。居間から続いているそこが祖母の部屋だ。
「由珠子、通知表、見せなさい」
渋々と階段を降り、襖を開け祖母の前に正座する。
差し出した通知表に気難しい顔でくまなく目を通すと、狐のような目つきになって「なぜ今回も数学と物理が3なの」となじる。苦手だからです、と心で呟く。
5段階中3は許されない。私の場合は中学から数学はほぼ3。4なんて一度取ったことがあるきりだ。物理も同様。計算が苦手だからだ。
一度、その苦手科目の底上げに力を注いだ結果、得意科目が引っ張られるように下がった事があり、これは言語道断だと思った。だからもう、頑張るのはやめている。
「受験がないからと言って疎かにしてはなりません。しっかりとした教養を身に着けないと、きちんとした方がお婿さんに来てくれませんからね」
散々小言を述べた後の締めくくりの言葉には耳にタコというよりは、もう石になって何も感じなくなっている。
中学も高校も、そして大学も、ある程度の成績をキープしていれば無試験で進学できる。だから別にいいじゃない、苦手なものは苦手なのよ。得意を伸ばす方が合理的でしょう。そもそも進学予定の併設大学はガッチガチの文系。数学なんて頑張った所で無駄、大無駄よ。
そんなことわからないでしょうけれど。何でも完璧にしたがるあなたには。
「もう、部屋に行って着替えてきて良いですか」
足も痺れて来て限界だった。祖母は居間の、鳩が隠れている時計を見やった。
「お茶のお稽古までまだ2時間と23分あるじゃないの」
アナログ時計なのに分単位で時間を計算する。そういう人。
「制服を早く脱ぎたいだけなのです」
「まぁよろしい。行きなさい。クリーニングに出しておいてもらうから、こちらに下ろしておきなさい」
ようやく解放。母は買い物なのか留守のようだった。居たところで助けたり慰めたりしてくれるわけではないけれど。
部屋に上がり、制服を脱ぎ捨てる。ため息。
お茶のお稽古も、近所のお寺で祖母の命で無理矢理習わされている。決して自分の意思でやりたいと言ったわけではない。そもそも自分が興味関心を抱いたことに共感や同意してくれた事はない。そのうちどうでもよくなってしまった。
お茶の先生は祖母の知り合いではあるけれど良い人だし、茶菓子が食べられるのでまぁいいかと思っている。
*
家から徒歩5分のところにあるお寺。その脇にある庫裡を利用して毎週金曜日の18時から、茶道教室が開かれている。
お点前の練習の後、お茶と茶菓子をいただきながら、軽い雑談の時間になる。
今日はお茶の先生の妹さんの話になった。先生は名を東路子と言い、もう60過ぎで、妹さんは57歳とのことだ。
「妹は私と違ってとっても活発なんですの。その妹が昨年から区民スポーツセンターで弓を教えてるようになりまして。若い方と触れ合う時間の素晴らしさに、私の気持ちが良くわかったと申しておりましてね」
このお茶教室では私が一番の若手で他の人はもう社会人ではあるが、東先生から見たら全員 "若い方" だ。そして全員女性。無論、男性などがいる教室に祖母が通わせるわけがない。結婚するまでは操を守らねばならない、のだそうだから。
「若い方に教える事で、若い方からもまた教えられる事がある、と喜んでおりました。またこの春から受講生が入れ替わるらしく、お茶と同じ、一期一会を楽しむのよ、なんて」
東先生は上品に笑った。
学園にも弓道部がある。袴に雪駄を履いて長い弓を持って校内を歩いている人を何度か見かけたが、薙刀部もあるので区別があまりつかなかった。
「凛々しいですよね、弓道って。やってみたいものだわ」
私の隣にいた社会人がそう言った。
「そうですね。男女問わず、弓道は何歳になっても続けられるスポーツなんですって」
学校の弓道部には女子しかいない。当たり前だ。女子校なのだから。
そしてこの茶道教室にも、女しかいない。
「先生、その弓道教室に興味があります」
そんな言葉が咄嗟に私の口から突いて出た。何を言っているのだと自分でも思った。
「あら、そう? 見学に行ってみたらどう? 話しておきましょうか」
東先生は好意で言ってくれたが、私はすぐに返事が出来なかった。はい、お願いします、と言えなかった。東先生は首を傾げる。
お稽古が終わり、他の生徒さんたちが帰ったのを確認して、私は東先生の元へ行った。
「先生、先ほどの弓道の見学の件なのですが」
「えぇ、興味がおありなら行ってみます?」
「その…弓道教室には男性もいらっしゃいますよね」
「いらっしゃるでしょうね」
「行ってみたいですが、でも、うちには内緒にして欲しいのです」
「えぇ?」
「あの、祖母の許可が下りないと思うので…、黙って行きたいのです」
「それは、どういう…」
そう言っている側から合点が行ったようにあぁ、と東先生は喉の奥で声を漏らした。ここは祖母の勧めで通っている教室だから、祖母のことはある程度は知っているはずだ。内緒で行きたいとの申し出に応えることが良き事なのか悪き事なのか、天秤に掛けているように見えた。
「由珠子さんは、大事に育てられているものね。心配なさるわよね。でも、まぁ…ね…」
「…」
「弓道教室は水曜の夜にやっているみたいですけど、どうやってお家には言って出ていらっしゃるの?」
「それは…」
確かに。単純な話だ。
やはり叶わないか。そう思った時。
東先生は「そうしましたら…」と言葉を次いだ。私は顔を上げた。
「ちょっとしたお茶会があるとご家族にはお話してみたらいかがかしら。一度だけで良ければ私が連れて行って差し上げましょう」
私は「お願いします」と頭を下げた。
息をしてみたいのだ。
淀んだあの家の縛りから解き放たれたい。例えわずかなひとときでも。
*
お茶のお稽古が終わって家に帰ってから風呂に入り、遅めの夕食を取る。
普段の夕食は私と母と祖母。金曜はたまに父が一緒の時もあるが、祖母は自分の食後でも必ず同席する。
その日は父はおらず私だけの膳が用意され、そのそばで祖母が見張る。
母は自室に籠もっているのか、顔を出さない。
頭上で鳩が8回鳴いた。
「今日はお父様は」
「接待があって遅くなるそうです。週末ですし、年度末ですし、色々なお付き合いや従業員に対する労いも必要になってくるのです」
父にはそういうところ、甘い。息子だから当然か。
「いただきます」
食事中は会話は禁止。我が家でTVがあるのは祖母の部屋だけで、居間は鳩時計以外の音はない。クラスメイトの中には同じようにTVのないお嬢様もいれば、パソコンを所有して時事や流行りに詳しいお嬢様もいる。そんな彼女たちから世の中の情報をインプットしている。
私はただひたすら、中途半端だ。
子供の頃は箸や茶碗の持ち方、食べ方、箸の運び方、お茶の飲み方に至るまで、全部全部厳しく祖母がチェックし、なってないと竹の定規のようなもので叩かれた。
以来、食事は味わうものではなく、常に緊張感を纏うものになっている。
食事が終わると、祖母が待ってましたと言わんばかりに口を開く。
「春休みだからと言って勉強を疎かにしてはなりません。如何わしい場所に出歩くなどあってはなりません。4月からは大学進学前の大事な1年間になりますからね。試験がないとはいえ、ぼんやり過ごしていてはなりません」
「わかりました」
わかってないけど。
「それはそうとお祖母様、来週水曜の夜、東先生が夜のお茶会に招いてくださることになりました」
祖母の眉がピクリと動く。
「夜の茶会?」
「せっかく春休みに入ったのだからと、先生が受講生のみんなを誘ってくださったのです」
「どういう茶会なのです? どんな輩が集まるのです?」
「私にはわかりません。でも東先生のお誘いですから、そんな怪しい会であるわけがありません」
「では確認します」
そう言って祖母は早速東先生に電話を掛けた。
「夜分遅くに恐縮でございます。なんでも来週の水曜の夜にお茶会があるのだとか…」
そんな切り出しから祖母はかなり細かくお茶会の内容を聞き出す。私は内心ヒヤヒヤしていた。
「かしこまりました。それではよろしくお願い申し上げます。ごきげんよう」
受話器を置いた祖母は「本当のようですね」と面白く無さそうに言った。
「ただし特別門限の21時までには帰るように」
とは言え、祖母を騙してくれた東先生に心から感謝した。
#2へつづく
※お嬢様ことば、先生の品の良いお言葉はフィクションにつき誇張があります。