【連載小説】あなたに出逢いたかった #41
パパには秘密があるー。
『お前だって俺とのこと、誰にでもペラペラ喋るか?』
声の余韻に耳が心臓になったかのように熱く脈打っている。それは蜂蜜のように身体の中で甘くねっとりとうねる。
梨沙はルームウェアの襟から手を差し入れ、左鎖骨にある青い蝶のTatooを撫でた。指の下でトクトクと脈を打ち、まるで蝶が躍動しているかのようだ。
いつの間にか、愚かな妄想の中で遼太郎と交わる相手が自分に代わっていた。
梨沙は熱くなった頬をおさえた。
私が人に言えないようなこと。それと同じようなこと。
パパの秘密。
それは、やはりあのことなのか。
私にそれを確かめる勇気が、あるか。
妄想の熱い波が引き、現実に引き戻される。
再びパニックに陥らないように深呼吸を試みるが、あまりうまくいかない。燻る疑念が今にも燃え上がりそうで怖い。
だって "秘密" なんだとしたら、隆次も知らないかもしれない。当然夏希も、誰も。
けれどそのヒントを、思いがけないところから摑んでしまったー。
陽菜から送られたドイツ旅行の写真をもう一度よく見てみる。
この女性は川嶋桜子だと言われば、そうかもしれないと思う。そうでないと言われたら…わからない。とても微妙だ。
陽菜は確か、父親とは彼が再婚するまでは会っていたと話していた。ということは、遼太郎と会っていた可能性がある。
けれど以前遼太郎のスケッチを見せた時『イケメンそうで羨ましい』と言い、自分の父親に似ているなんて言葉はなかった。確かにあのスケッチは顔をよく見せていない。もしもう少しわかりやすいものを見せたら…。
いや、それをしたら陽菜はどうなる?
自分が妹だと、そんな形で知ったら?
さすがに気が引けた。いや、核心に迫るのが怖かったのかもしれない。
同時にもう一つのことも明らかになってしまう。
稜央が自分の兄、ということ。
未だにそんな考えが頭を占めることを、どこかでは信じられずにいた。いや、信じたくないと思っていた。思考の回線が誤って繋がって、そこから先の考えが全ておかしくなっているのではないか、とさえ思う。
ただ、梨沙の描いた遼太郎のスケッチを川嶋桜子に見られてはいけない、それだけはダメだと強く思った。
彼女の目にそんな形で遼太郎が映ることが嫌だった。
もう二度と見て欲しくない。映して欲しくない。思い出して欲しくない。
梨沙はスマホを取り出し、陽菜にメッセージ昼間の返信を打った。
嘘をついた。こちらから正体を明かすのがあまりにも怖かった。
陽菜から返信はすぐに来た。
梨沙は自分から明かさない代わりに、もう一つ陽菜に質問した。
名前を直接訊く勇気が出ない。けれどこの質問で名前が出てくるかもしれない、と思ったが、そうではなかった。
えっ。
梨沙は目を丸くした。気道に詰まっていたものが一気に流れていくような気がした。
杞憂だった…?
全身の力が抜け落ちていくようだった。なんだ…なんだ…。
しかし、続けて届いた陽菜からのメッセージ。
ドキリとした。今、陽菜の近くに稜央がいる…。元日に気まずく別れて以来だ。
梨沙も謝ると『全然、気にしないでください(^_-)-☆』といつもの調子で返事が来て、その夜はそれで終わらせた。
『ちょっとだけ我が家は複雑だったりするので』
複雑…。何が複雑なのだろう。
とりあえず、稜央や陽菜が兄姉ではないことが明らかになってホッとした。
でも…。
それだと、稜央が遼太郎に似ている理由は…本当にただの偶然なのか…本当に?
そしてもう一つ思い出した。車の中で聞いた稜央の言葉。
『父親のことは知らないんだ。いないって言われて育ってきたから』
妹の陽菜は小さい頃は会っていたというのに、なぜ兄の稜央が『知らない』のか。
スッキリ通ったはずの喉の奥に再び何かが込み上げる。
じっとりと、嫌な汗が流れた。
***
一方で稜央は考えていた。梨沙は勘づいたかもしれないと。
陽菜から、梨沙の父はうちの母と同い年らしいけど違う高校だった、と聞いたからだ。高校名を出しておきながら違うと言ったということは、梨沙は嘘を付いている事になる。彼女は遼太郎の高校のアルバムを見ているからだ。
陽菜には「家の話を安易にするな」と諭し、彼女は渋々受け入れた。
"ついに梨沙は、パンドラの箱に手をかけた"
最初からわかっていたはずだ。近づけばバレることくらい。
だとしたらあの時、横浜で再会してしまったあの時、どうすれば良かったのか。
君の顔なんて二度と見たくない、消え失せろとでも言えば良かったのか。
それとも、去年末の事なんてもうさっぱり憶えてないと言わんばかりに「君は誰?」と言えば良かったのか。
ただどっちにしたって、全ての答えは彼女を絶望させることでしかない。
僕らは運命的な出逢いをした。これまでの日常をぶち壊す、運命的な出逢い。
彼女は恨み哀しみ、憎しむかもしれない。
誰を? 誰も彼もをだ。
まるで昔の自分みたいに。
"まるで昔の自分"
あの頃の苦しさが込み上げてくる。
稜央は頭を振った。
ただ…別に誰も罪を犯しているわけでもない。たまたま若気の至りで、婚姻を結ばずに子供が産まれ、その内各々に家族が出来た…ただそれだけのことじゃないか。奪ったわけでも裏切ったわけでもない。
何が悪いんだよ。
稜央はスマホを握りしめ、唇を噛む。
開き直れるのか?
怖いんだろ。
いつも逃げてたもんな。
やっぱり俺は逃げることしか出来ないんだ。
やっぱり俺は逃げることしか出来ないんだ。
やっぱり俺は…。
逃げるのが嫌なら、全てをぶちまけるしかない。
稜央は脱力したようにうなだれた。
それでも、自分の口から事実を語ることはないだろう。そんな権限、自分にはない。
エンドマークを誰が置くのか。
いっそのこと、何もかも知った上で梨沙とは出逢いたかった。
正々堂々と、同じ苦しみ、同じ悲しみ、同じ渇望を共感し分かち合い、補うことが出来たはずだ。
梨沙。
あの頃の僕と同じ目をした、僕の妹。
出逢ったことが運命というのならば、そもそも僕らは同じ螺旋の上で生まれた共同体。
破滅へ導いていくかもしれないあの人の遺伝子を持つ僕ら。
#42へつづく