見出し画像

【連載】運命の扉 宿命の旋律 #57

Dolcemente - やさしく、あまく、やわらかく -


日差しが柔らかに部屋に差し込んでいる。

窓はほんの少し開いていて、その風も心地よく、ソファの上で寝転びながら刹那の秋の日和に目を細めた。

そばには2歳になった長女の梨沙が、叔父の春彦に買ってもらったクレパスを使って何かを描いている。既に絵心があるのか、使う色は黄色・オレンジ・赤…秋の色ばかりだ。

「パパァ」

遼太郎はその声の方に瞳を向ける。梨沙は黙って父の顔をじっと見つめていた。大きな黒い瞳は母親譲りだな、と思う。
遼太郎は目尻を下げ、柔らかな笑みを浮かべる。

「どうした梨沙。何描いてるの」

それでも梨沙は黙って遼太郎の顔を見つめている。

「そんなに見つめられたら照れるだろう」

遼太郎が身体を起こそうとした時、眉をしかめた。左肩の傷はまだ痛みを伴う。
それでも起き上がりソファに座り直すと娘を抱えあげ、膝に載せた。傷の痛みに苦笑いしながら。

家は静かだった。妻の夏希は長男の蓮を連れて3ヶ月検診に出かけている。
遼太郎は午後半休を取って娘と留守番、というわけだ。

梨沙は父の膝の上で嬉しそうに身体をよじり、その胸に頬を付けた。

「いてて、しょうがないな、まったく」

そうは言っても遼太郎は平穏な表情を浮かべている。
一ヶ月前とはまるで別人の姿だった。

ふいに遼太郎はそばにあったタブレットを手元に寄せ右手で操作すると、ソファの横に置いてあるBluetoothのスピーカーが接続音を鳴らした。

やがてそのスピーカーからピアノのメロディが流れ出す。
梨沙は父の腕の中でじっとしたまま、メロディに耳を傾けているのか否かはよくわからない。
遼太郎は梨沙の頭をそっと撫で、静かに目を閉じた。

『なき王女のためのパヴァーヌ』

ディエゴ・ベラスケスの描いたマルガリータ王女の肖像画にインスピレーションを得て作曲したとされるこの曲。
こんな美しい曲になるなんて、まさに今抱く我が娘…お前のような美しい娘だったんだろうな、マルガリータは。
お前が王女なら俺は王ってことか、と思い、遼太郎は苦笑する。

それにしても心が溶けるようだった。
美しいものは心を震わせるのだと、当たり前のようなことを改めて実感する。

ふいに梨沙が遼太郎の顔に自分の小さな手を押し当てる。
頬に零れた涙を拭っているのだ。
遼太郎はまた苦笑いする。俺の姫は感性が鋭いな。

続いて曲はショパンの『英雄ポロネーズ』が流れ出した。

これまでのしっとり溶けるような感情とは打って変わって、勇ましく雄大な心持ちになる。

仕事のついでに2~3度訪れたことのあるワルシャワが容易にまぶたに浮かぶ。
ワルシャワはまさにこの曲で、この曲はワルシャワの、いや、ポーランドの全てを表現していると感じる。
アイツはワルシャワへは行ったことないんだろうな、と思いながら。

もし行ったら、アイツはショパンの国でどんなメロディを奏でるだろうか?

市内にあるワジェンキ公園では、5月から9月の毎週日曜日にショパンのピアノコンサートが無料で開かれており、誰でも訪れて聴くことが出来る。
ピアニストはポーランド人が中心だが、海外のピアニストも名を連ねる。日本人の名前を見かけることもあった。

遼太郎も一度足を運んだことがある。

芝生に寝転びながら、ピアノの生演奏を1時間あまり無料で聴かせるポーランドの文化度の高さに感服し、平和すぎるほど穏やかな青空を見上げながら聴いたのは、まさに『英雄ポロネーズ』だった。

木々の隙間から溢れる太陽のプリズム、淡い青空、風のざわめき、花の色、人々の和やかな笑い声や会話…全てが一枚の画のように焼き付いている。

Ładzienki park

その場所で、あの男がこの曲を弾く姿を想像してみた。

…悪くないんじゃないか?

梨沙もアイツも、俺に似ないで芸術センスが高いんだな。いいこと・・・・じゃないか。

そこでずっと膝の上で大人しくしていた梨沙が、曲が主題部に転じると両腕を伸ばして、曲の躍動感そのままに身体を動かした。

「いてて。なんだ梨沙。この曲が気に入ったか?」

遼太郎は娘を抱き締めると

「この曲はお前のお兄ちゃんが弾いてるんだぞ」

と耳元でヒソヒソと囁いた。
梨沙はただキョトンとその黒く大きな瞳を丸くした。

遼太郎の脳裏には、芝生に囲まれた明るい日差しのもとで稜央が伸び伸びとポロネーズを弾く姿が描かれていた。

旋律は輪廻を巡り青空へ高く駆け上がる。
そして遺伝子は全てを記憶し、地上に還る。


遼太郎は静かに口角を上げた。




#58 最終話へつづく

※ヘッダー画像はゆゆさん(Twitter:@hrmy801)の許可をいただき使用しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?