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【シリーズ連載・Guilty】 先輩、私がなんとかします!#1

~春。강채영カン チェヨンという名の女性、の巻


先輩は手酌しようとした。私はそれを慌てて阻止する。

「だめです、先輩。私がお注ぎしますので」

左手を右脇にあて右手でビール瓶を差し出すと、先輩は笑った。

「カンちゃん、いいんだよ。そういう気遣いはここではいらない」

カンちゃんとは、강채영カン チェヨン、私のことである。

「そんなわけには行きません」
「韓国は上下関係が厳しいっていうよね。でもここは日本だから」
「上下関係というか、目上の人を敬います。どこの国も同じだと思います」
「じゃあ言うけど、欧州の一部の国では、他人がお酌をするなんてアウトなんだよ」
「…それはどういうことですか」
「気にするなって事を言いたいの。所変わればなんとやら、だよ」

そう言って先輩は自分が手にしていた瓶を置き、私の手から瓶を取るとそれを自分のグラスに注いだ。

「カンちゃん、野島の言う通り。気を遣うことないよ、特にこいつには」

隣りにいた別の先輩、島崎さんも笑いながら言った。野島先輩は私の2つ上、島崎先輩は更にその1つ上の先輩である。

この宴会の席は私を含む今年の新卒の歓迎会だ。
5月、私は企画営業部第一課に配属された。歓迎会は部合同で行われたため、役員も含めて40名以上はいるだろうか。

「でもさ、カンちゃんの日本語、本当にきれいだよね。日本人って言ったってバレないよ」

先程の島崎先輩が私のグラスにビールを注ごうとしながら言う。

「あぁ、先輩、だからダメです」
「いいんだって。他の部署は知らないけど、さっき野島も言った通りウチは男だから女だからとか、先輩だから後輩だからとか日本だからどこだからとか、あまり関係ないから」
「それだけ仕事に対しても容赦ないってことだけどね」

野島先輩が向かいから言った。

「肝に銘じておきます」
「さっすが、真面目だなぁ。カンちゃん。何でも言うこと聞いてくれちゃう」
「からかわないであげてくださいよ、島崎さん」

先輩たちのやり取りを聞きながら、注がれたビールを飲む。
ビールはあまり、好きじゃない。


「島崎さん、何だかんだ飲ませすぎですよ」

野島先輩が島崎先輩を窘めている。私はすっかり酷い頭痛に見舞われ、最悪な気分になっていた。

「まぁまぁ、歓迎会だからさ」
「カンちゃん、大丈夫?」

野島先輩は私の顔を覗き込んだ。

「野島、お前こそダメだよ」
「なんでですか」
「カンちゃん、野島には気をつけなね。こいつ、仕事はできるけど女癖悪いから。仕事以外でついて行っちゃダメだからね」

私にそう忠告した島崎先輩は、野島先輩からお腹にパンチを食らった。野島先輩の方が後輩のはずである。下剋上までもありなのかと驚く。

「ま、嘘じゃないけどね」

しかし野島先輩はそう言って私に笑いかける。

「そうなんですか。気をつけます」

そう答えると、野島先輩は驚いたようにクルッと目を丸くした。
かわいい顔だ。この顔は韓国人の間でもきっとモテるだろう。

同時に、こういう笑顔を浮かべる人は危険だ。女の人をダメにする。きっと。

本当に気をつけよう。 


駅で野島先輩が分かれ、私は島崎先輩と同じ方向のメトロに乗った。

「野島先輩は、そんなに女癖が悪いですか」

すると島崎先輩は頭をポリポリと掻きながら言った。

「あんまり大げさに取らないでいいよ。仕事はちゃんとやる奴だし、同僚や後輩の面倒見もいいからさ」
「仕事から離れると、危ないんですか」
「う~ん、まぁ…。あいつ、仕事出来る上にあぁいう見た目だし、モテるんだよ」
「わかります」
「で、まぁ優しさなのか何なのかわからないけど、あっちこっちで…色々とね」
「色々と…何があるんですか?」

島崎先輩は苦そうな顔をした。そしてシーッというゼスチャーをしながら「今から言う事、俺が言ったって、野島に絶対に言わないでよ」と言った。

「約束します」
「まぁ…取引先とか、飲み屋で出会った女とすぐ…アレなわけ」
「アレとは何ですか?」
「それは…みなまで言わせるな。カンちゃんももう少し社会人経験を積んだら直ぐにわかるよ」


…ずるい。結局何も言ってないことと同じだ。


**


企画営業部は一課から三課まであり、同期がそれぞれ一人ずつ配属になった。

配属直後は女性の先輩が付いて庶務を教わっていたが、2年上の野島先輩が外注先や協力会社への挨拶周りのために、2日に1回は私を外に連れ出した。
野島先輩の指示や説明は論理的で無駄がなく、質問にもすぐに的確な回答をくれる。頭の良い先輩だ。仕事の上では確かに非常に尊敬出来る、そう思った。

外回りの休憩時間、喫茶店に入りお茶を飲みながら野島先輩と話をした。

「野島先輩はすごく仕事のできる人です。そんな人に付くことが出来て私はラッキーです」
「ありがとう。普段は呼ぶ時に "先輩" って付けなくていいよ」
「え…でもそれでは野島、と呼び捨てになってしまいます。それも気にしないでいいということですか?」

先輩はアッハッハ、と笑い

「呼び捨てでも俺は別に構わないけど、周りがぎょっとするからな。野島さん、でいいから」

と言った。私の顔は熱くなった。

「はい、わかります。すみません、そういう意味でしたね」
「でも、韓国では名字にさん付けって、失礼なんだっけ?」
「はいそうですね。韓国では "さん" はッシと言いますが、日本のように名字だけにそれは付けません。フルネーム、もしくは名前に付けます。でも名前に付ける場合は、恋人とか親しい場合になりますね」

先輩は真剣な顔で私の説明を聞いている。とても真面目な人だ。

「じゃあ、カンチェヨンッシ、だね」
「はい、そうです。でもこのッシの使い方は少し難しい。初対面やすごく目上の人に使うと返って失礼です」
「日本以上に階層の差を感じるな」
「でもここは日本ですし、私も日本に住んで2年たちましたから、カンさん、と呼ばれることにはもう慣れました」
「そうか、確か日本の大学院出たって言ってたね」
「はい。韓国の大学を出た後、日本の大学院に編入しました。だから他の同期より2歳私は年を取っています」
「そうか…じゃあ俺と同い年なのか。どうりで落ち着きもあると思った。俺ら普段は会社でカンちゃん呼びしてるけど、韓国では愛称はどうなるの?」
「名前の最後にパッチムが有るか無いかで変わります」
「パッチム…聞いたことあるけどよくわからないんだ」

私は手帳を出し、自分の名前をハングルで書いた。

「例えば私の名前 "강채영" のうち、채がパッチム無し、강と영がパッチム有りです。パッチムがない場合は "" を、パッチムが有る場合は "" を付けます」
「そうするとカンちゃんの場合は…」
「私の名前はパッチムがあります。だから "채영아チェヨンア" となります」
「チェヨンア…」

私は先輩が "チェヨンア" と発音したことに、少し恥ずかしくなった。
しかしその時ふと、先輩は窓の外に顔を向け、目を細めた。笑顔を消して。何か思うことがあったのだろうか。
とにかく名前で呼ばれては困ると思い、慌てて言った。

「先輩はカンさんか、カンちゃんでいいですから」
「うん」

先輩はコーヒーを口に運びながら頷く。危ない危ない。

「そう言えば島崎先輩がこの前話していた、野島先ぱ…野島さんは女癖が悪いと言っていたことについて、具体的にはどのような事をしていらしゃるのでしょうか?」

タイミングが悪かった。先輩はグフッと吹き出し、むせた。私は慌ててハンカチを差し出した。

「すみません。変なことを言いました」
「いや…面白いこと訊くなと思ってさ」
「面白いですか。そんなつもりはなかったのですが」
「わかってるよ」

先輩は私のハンカチは制して、ポケットから自分のハンカチを取り出した。濃いブルーで、きちんとアイロンがかかっている。

「島崎さんが帰りに何か言ったか?」
「いえ…島崎先輩は何も…」
「あの時カンちゃんも "気をつけます" って言ってただろ。それでいいよ」
「あの時は私はとても酔っていましたので、言われるがままに返事していました。でも後でよく考えて…本当にですか? と思いました。だって野島先p…野島さんはとても酷い人のように感じてしまいます」
「そうかもしれないよ」

またも肯定し、先輩は水の入ったグラスを口に付けた。今度はちゃんと喉を通っていったことを確認してから発言した。

「私、もう一つ思ったことがあります」
「なに?」
「…いえ、ちょっと…言いづらいです」
「なんだ、そこまで言っておいてズルいな」

"あなたの笑顔は危険です" と言ったら、どういう反応をするだろう。
結局私も島崎先輩と同じ、酷い言い方になるかもしれない。

色々と飲み込んで、別の方向から攻めてみようと思った。

「野島さんは本当にモテると思います」
「それ、褒めてるの?」
「半分、はい」
「じゃあ、その褒めてない方の半分が正しい解釈だな」

やはり、この人は頭がいい。

「先輩は女の人が好きですか」
「少なくとも、嫌いではないよ」
「彼女はいるんですか」
「いないよ」

即答。

「え、意外です。女の人好きなのに、彼女を作らないですか」
「だから遊んでるんだ、と島崎さんは言いたいんだよ」
「そうですか。作ったらそんなこと言われなくなりますよ」
「作らないよ」
「おかしいです」
「そう、俺はおかしいの」

何だろうか、私は先輩の中に小さな問題を見つけたような気がした。
いえ、きっかけが小さいだけで、大きな問題かもしれなかった。


おかしいままでいいはずがない。





#2へつづく


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