【連載】運命の扉 宿命の旋律 #15
Temperatur - 平均律 -
三学期が始まった。
いよいよ1年生も残すところあと3ヶ月。
萌花は変化を感じていた。
稜央と目が合うことが増えたのだ。もちろん彼はすぐに逸らしてしまうけれど、それでもまた目が合う。
年末に駅前のロータリーで肩を寄せ合い、稜央に「好きになってもいい?」と訊いて以来、彼の態度は明らかに変わった。
そして放課後、彼の後で音楽室に入っても、彼はもう怒鳴ったり追い出したりしない。
黙って静かに、時に激しくピアノを奏でる。
ある日聴こえてきたのはなめらかで清らかな…『アヴェ・マリア』だった。
グリーグのピアノ協奏曲といった硬派なイメージが強かったから、こんな清々しい曲を弾いているのが意外だった。
心が整えられるような、美しい旋律。
萌花は入口のドアの前で立ち尽くし、ピアノの屋根の向こうで見え隠れする稜央の姿に見惚れた。
静かに第1番が終わると、稜央は顔を上げた。
萌花と目が合うと、咄嗟に目を逸らした。そしてボソッと言った。
「こっち来て、座れば」
萌花はおずおずと近づき、稜央の手元が見えるような場所に椅子を置いて座った。
「今弾いていたのって、アヴェ・マリア?」
「正式には『平均律クラヴィーア 第1巻 第1番前奏曲とフーガ ハ長調』って言う。平均律クラヴィーア曲集第1巻は全部で24曲ある」
そう言って再び "バッハらしい" 曲を弾き始めた。第2番なのだろう。
「平均律クラヴィーア曲集は、音楽の旧約聖書とも呼ばれている。1オクターブの12の音のそれぞれ長調と短調で24調の調律曲になっている」
第2番を弾き終えた後、稜央は譜面台を見たままそう言った。
女の子を前にして何を話していいかわからない男の子が、自分の得意な、知っていることをとりあえず語りだす。そんな典型のように思われた。
稜央は第3番、第4番...と弾いていく。
バッハの曲は美しい。まるで洗脳されてしまうかのような危険性すら感じる。
そしてそんな曲を稜央は本当に軽やかに、なめらかに弾いていく。
譜面台に楽譜はあるものの、ほとんど目を閉じて弾いていたりする。
時折天井を仰ぐように顔を上げるが、やはり目は閉じている。
そんな稜央の横顔に見惚れた。
なんて美しいのだろう、と。
稜央は顔貌は良い方だが、その美しさはもっと内面からくるもののように感じられた。
以降は言葉もなく、24調の平均律を弾いていく。
2人の心の間を整えていくように。
* * *
そんな風に2人は音楽室で共に過ごす時間を重ねた。
冬の刺すように冷たい外の空気とは隔離された、暖かな空間で。
会話は稜央の音楽理論や観念的な話が多かったが、ピアノを奏でると言葉以上に感情が伝わった。
2月に入ると学年末試験に向けて部活も休止になり勉強一色の空気になるが、稜央だけは相変わらず放課後に音楽室に籠もる。
流石に落ちこぼれてしまう可能性のある萌花はこの期間は音楽室に行くのは我慢した。
けれど毎日稜央のことを思った。
教室では相変わらず目が合う。
ちょうど試験期間中にバレンタインを迎え、萌花は手作りの小さなブラウニーを稜央のために用意した。
試験が終わった後、教室を出ていく稜央に声をかけ、音楽室まで一緒に行った。
部屋の中に入りプレゼントを差し出すと、稜央は目を真ん丸にして驚いた。
「え、これ、俺に?」
「当たり前でしょ…」
萌花も恥ずかしくて俯きながら、少しつっけんどんに答える。
「あ、俺、母親と妹以外からもらうの初めてで…」
戸惑ってオロオロとしている稜央を見ていたら、萌花は少しおかしくなってクスッと笑った。
「開けても…いい?」
「うん…お口に合うかな」
小さな箱を開くと、キューブ型のブラウニーが3つ。
ハート型に抜くのは流石に恥ずかしかったのだ。
稜央はすぐに1つを口に放る。萌花は緊張しながら様子を伺う。
「…どう? 自分で作ったんだけど…美味しくないかな?」
「え…これ、川越が作ったの?…いや、美味いよ…美味い…」
けれど2つ目は食べずに箱の蓋を閉めた。
「え、本当に? 気を遣ってくれてるんじゃなくて?」
「気なんか遣ってないよ。あとは…家で食べる」
それでも萌花が不安そうな顔で見つめていると
「すぐに全部食べたらもったいないから、家で食べるだけだよ」
照れくさそうに顔を赤らめて目を逸らしながら稜央は言った。
萌花も安心して「そっか」と言った。
「ありがとう…」
稜央は目を背けたまま、小さな声で礼を言った。
ようやく萌花も満面の笑みを浮かべた。
「川嶋くん、試験期間中もずっとここで弾いてるの?」
「うん」
「試験勉強とか…いつしてるの?」
「特に試験だからってそんなに時間かけてやることはない…。まぁノートは見直すけど」
萌花はため息をついた。
本当に出来が違うのだ。
「川嶋くん、本当に頭いいんだね…。私、たくさん勉強しないといけないから、今日は帰るね」
「あ」
帰ると行った途端に稜央は動揺したような顔をした。
「…どうしたの?」
「その…ここで勉強していけば? わからないところあったら、見てあげるから…」
萌花は、真っ赤な顔をして言ってくれた彼のその提案に驚いた。
稜央は机を一つ引っ張ってきて、ピアノの側に置いた。萌花が座っていた椅子も、その机の前に付けた。
自分はピアノの椅子を寄せてきた。
「川越は数学が苦手だったよな…俺も得意じゃないけど、多分教えられるから、どこが苦手なのか言ってみて」
萌花が試験範囲のノートを開き、解き方のわからない問題について稜央に訊くと、彼は図解付きで解説してくれた。
教え方があまりにも上手いので、本当に頭が良いことを改めて実感した。
ふと、2年生になったら稜央とは別々のクラスになるのだろうと思い、萌花は寂しくなった。
「川嶋くんは2年生でもこのまま特進コースに行くんだよね? 文系? 理系?」
「ん…特に何も考えてないけど…つまんない授業受けても仕方がないから、そこそこのレベルのクラスに入らないと意味はないかな、とは思ってる」
萌花はため息をついた。
「私…コース変更して進学コースにしようと思ってる。全然余裕がなくって大変だから」
「えっ…そうなのか…」
「だからクラスは別々になっちゃうと思うけど…2年生になってもたまにここに来てピアノ聴いてもいい?」
稜央は少し戸惑った表情をした。萌花は「ピアノを聴きに来ること」について戸惑っているのだと、思っていた。
けれど実際は違った。
稜央は今までのような環境が変わることに戸惑ったのだ。
「いいよ…おいでよ」
目を逸らし、無愛想ながらも稜央はそう言ってくれた。
「…ありがとう。あと良かったら…連絡先交換しない?」
稜央は頬を赤らめ、ゴソゴソとズボンのポケットからスマホを取り出した。
やり方がわからないという稜央のスマホを操作して、2人は連絡先を交換した。
稜央のアイコンは何も登録されていないデフォルトのままのものだった。それが稜央らしかった。
「川嶋くん…ひとつ訊いてもいい?」
「うん…何?」
「私、前に訊いた質問の返事をまだもらってないの」
「え…なんだっけ…」
萌花はやっぱりな、と思いつつわざと頬を膨らませて下から稜央を見た。
「好きになってもいい? っていう質問の返事」
「えっ…だからそれは…」
たじろぐ稜央に萌花は少し愉快になった。
「川嶋くんはもう逃げ出さなくなった。だから次はちゃんと答える番」
真っ直ぐに見つめる萌花に稜央は目を逸らすけれど、逸らしても逸らしても追いかけて来て、逃げられなくなった。
耳まで赤くして、稜央は答えた。
「いいです…」
「何が、いいの?」
萌花は少し意地悪をする。稜央はますます顔を赤くして俯いた。
「好きになっても…いいです…」
萌花は満面の笑みを浮かべ、稜央の頬にキスをした。
驚いて目を見開く稜央は、赤い顔をしてキスされた頬を何度も撫でていた。
#16へつづく