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【連載短編】猫と、ありふれた孤独 #最終話


野島遼太郎…主人公。43歳。妻と4歳の娘・2歳の息子を日本に残し、ベルリンに短期単身赴任中。
ゾフィア…ポーランド出身の二十歳の大学生。休学中。
ミア…生後3~4ヶ月の子猫

登場人物

🐾🐾🐾


俺の太腿の上にいるミアの頭をそっと撫でながら、ゾフィア自身も名残惜しそうに身体を寄せてくる。

「このアパートに、中学生くらいの男の子がいるだろ。知り合いか?」

突然の問いに、彼女は意図が飲み込めないようだった。

「彼は知っていた、ミアのこと。ゾフィーの家の猫だろって」
「あぁ、Emilエミルのことなら、挨拶くらいはするわ」
「それでも十分だ。何かあったら住人を頼れ」

なぜかあの少年は、手助けをしてくれる気がした。

「中学生と恋をしろと?」
「そうじゃない。また具合が悪くなって動けなくなったら、の話だ。事前に事情を話しておくといい」

ゾフィアは納得がいかない風に顔をしかめたが、一応頷いた。

「どうだ、今夜はすんなり眠れそうか?」
「吸入したから、咳は少しはマシになる。でも…」
「でも、なんだ」
「リオにそばにいてほしい」
「それは…」
「お願い。ただいてくれるだけでいい。リオが抱きしめていてくれると暖かいし、安心するから。それとも私が咳き込むから眠れなくて嫌?」
「そういうわけじゃないけど」
「…家族のこと?」
「もちろんそうだ。でもそれだけじゃない」
「昨夜はキスしてくれたのに。もう奥さまを裏切っているでしょう」
「こういう俺を妻は受け入れてくれる。俺は妻には頭が上がらないんだ」

ブルーの瞳が揺れた。

そう。妻は狂人じみた俺の全てを受け入れると言った。愛想を尽かしたならいつでも離れていっていいと言っても "あなたが何をしても何を考えていても、あなたは私の大切な家族。あなたが望む限り私はあなたの妻であり続ける。私はあなたの妻であることを誇りに思う" と言う。
学生時代に両親を事故で失った妻は、家族に対してこだわりがある。
家族なんて持ちたくないと思っていた俺とは、対象的だった。
その俺が、彼女を妻に迎え入れ、家族となった。

もちろん、彼女のことは大切な存在だった。考えあぐねていた頃『青臭いこだわりを捨てて身を固めろ』と、当時の上司にたしなめられた事がある。互いの年齢的にも、己の今後のキャリアを考えた上でも、気取った真似をいつまでもするな、と。

"青臭いこだわり" …。
確かに、俺は青臭い野郎だった。

妻はあまり目立たず、何かが特別秀でているわけでもない、平凡な女だ。
だが、とても強かだ。
妻の支えがなければ、今の俺はない。


ただ、今の俺が正解なのかどうかは、わからない。


「何でも許してくれる素敵な奥さまなのね。それなのにリオ、あまり幸せそうじゃない」

思わず顔を引き攣らせた。
そんなことはないだろう。俺には充分過ぎる妻じゃないか。
そう…充分「過ぎる」くらいに。


ゾフィアは俺の左手を取り、自分の頬にあてた。彼女の細くしなやかな指が薬指にある指輪をなぞる。

「私は昨日、嘘をついた。公園に行くことは日課だからあなたのことは関係ないと言ったけど、嘘。あなたに会いたくて公園に行っていたの。あなたが通る頃の時間を見計らって。クリスマスに家族に会いに日本に戻ったのだということは2~3日して思い出したけど、それでも…」
「きみとは親子と言ってもいいくらい歳が離れてる」
「でも、私は子供じゃない」
「きみは俺に父親の幻想を追い求めているんだろう」
「私の父だった人は、黒髪でも黒目でもないし、あなたのように美しい体躯でもない。似ても似つかない」

触れていた左手を摑んで離すと、ゾフィアは唇を噛み締めた。
彼女はまだ弱冠二十歳、少女と女の境目を彷徨う迷い人だ。そうは言ったって俺に父親の幻想、あるいは憧れを重ねているだけだろう。
そう、あくまでも幻だ。

けれど俺も、幻を見ているのかもしれない。

それでも試すように上目遣いで俺の目を見上げてくる。柔らかなようで芯がある目つき。

「ゾシャ、きみは素敵な女性だと思う。でももし今きみと身体を重ね合ったら、互いに情が生まれて離れづらくなる。けれど俺は来月には日本に戻る。無駄につらい思い出を作る必要はない」
「じゃあどうして昨夜、キスなんてしたの?」

黙り込む俺はひどく狡く、情けない。

「ミアは私にあなたを引き寄せてくれた。あなたであることに意味があると思っている」
「ゾシャ、いっときの迷いや勘違いは誰にでもある」
「昨夜のキスはいっときの迷いだったってこと?」
「そうじゃない。ゾシャは俺に勘違いをしているだけだと言いたいんだ」
「勘違いから愛が始まってはいけないの?」
「…」
「ねぇ、だったらどうして出逢うの? 愛することが罪になるのなら、なぜ出逢うの? 教えてリオ」


愛することが罪になるのなら。
確かに愛なんて、罪とは紙一重なのかもしれない。いくつもの愛を弄んで来た俺は、罪を重ね続けて生きている。
ゾフィアが見つけた相手が俺だったことは、不運だった。


「…人間は誰でも過ちを犯すものでしょ。だったら罪を背負って生きていけばいいのよ。償おうが償うまいが、それでも生きていくのよ、みんな。仮に罪を犯さなくとも、失われる命もあるけれど」
「きみのお母さんのようにか」
「…わからない。私はまだほんの子供だった。でも私は聖人君子なんて滅多にいるものじゃないってことくらい、わかってる」
「罪の重さに耐えられなくなって自ら絶つ命だってあるだろう」

ゾフィアの顔色がサッと変わったが、すぐに表情を引き締めた。

「あなたは違うでしょう」
「そうかな」
「死にたいほどの罪を犯したっていうの?」

言われて俺は左鎖骨の下にある傷を、セーターの上から撫でた。
2年前、ある男と揉み合って負った傷は、烙印にふさわしくケロイドのようになって痕に残っている。
そのある男とは、20年以上前に別れた、今でも時折夢に出てくるあの女との間に生まれた息子だ。


俺は無意識に笑ったらしい。なぜ笑うの、とゾフィアは訊いた。
答えを戸惑う俺に、いきなり抱きついてきた。その拍子に太腿の上にいたミアが飛び出す。

「ゾシャ。俺はろくな男じゃない。もっとマシなヤツはいくらでもいる」
「私は聖人君子を愛したいわけじゃない。リオ、あなたなの」
「背徳は麻薬みたいなものだ。麻薬に溺れた廃人になりたいのか」
「…それがあなたなら、Jaヤー(Yes)よ」
「今よりもっとつらくなってもか。俺は来月には日本に帰るんだぞ。そのあと何事もなかったように過ごせるのか」

ゾフィアは力強く頷き、つらいと言ったって、そんなに大したことじゃないと思うけど、と笑みを浮かべた。初めて会った時に見せたあどけない笑顔とは、別の顔だった。

Jestemイェステム tobąトボン zachwyconaザフヴィツォナ. Proszęプロシェ, bądźボンジ przyプシィ mnieムニエNieニエ zostawiajゾスタヴィアイ mnieムニエ samegoサメゴRyoリオKochamコハム cięチエ…」


ゾフィアがなんと言ったのか聞き取れず、瞳を覗き込む。この響きはスラブ系…ポーランド語か。母語で何を言ったのか。


(私はあなたに夢中なの。お願い、そばにいて。私をひとりにしないで。愛してる)


それ以上は何も言わずただ、細い腕にこれでもかというほどの力を込める。そんな彼女の背に手を回し、彼女を受け止める。

こんなに細い身体で、この国の冬を越すというのか。こちらでは理にかなった体型になっていくものなのに。


彼女から唇を重ねて来、俺はそれも受けた。
冷たく乾いた唇が溶けていく。


“リオ、あまり幸せそうじゃない”

「また笑った」

ゾフィアの声に我に返り、少しうろたえる。

「リオ、あなたはやはり、父だった人と同じ匂いがするのかもしれない」
「それじゃあ近親相姦ってことか」
「でもリオは決してろくでなし・・・・・なんかじゃないわ」

ゾフィアも口角を上げた。

「ろくでなしだよ」

閉じられた唇を親指で緩め、強引に舌をねじ込んだ。


なぜ出逢うのか。
孤独を埋め合わせるためか。
ふさわしい相手が出てくるまで、凍える身体を放置するしかないのか。


今、冷え切った心も身体も、唇ひとつで燃やすことができる。

今、きみの全てを溶かしてあげたいと思った。
この先、ただつらくなることがわかっていても。


🐾


暗闇に、ふたつの小さな光。灯りのない部屋で何に反射しているのだろうか。

隣に眠るゾフィアを起こさないようそっとベッドから抜け出し、その光の元に近づいた。
両手を伸ばすと、手の上に乗ってきた。

「ミア」

そのまま抱きかかえ、ソファに身を沈める。小さく、暖かな身体。

ミア。お前が神の使いなら、神は俺をどう裁くと思う?

主を気遣ってか、小さな小さな声で一鳴きした。

「どうしてお前は、俺を見つけた? 脚にまでよじ登りやがって」

今度はややボリュームを上げてミヤァウと鳴くので、しーっと人差し指を唇にあてる。


誰でも罪を犯す。罪を償おうが償うまいが、生きていく。


俺が姿を消したら、ゾフィアはまたお前を外に出して俺を呼び寄せるかな。
それとも案外、すぐに諦めるかな。

どっちだと思う? ミア。

ゾフィアに、ひとりで生きていく生命力は、あるのか。


ミャウ。


「ミア、お前が俺の魂の片割れなら、ゾシャのこと、頼むよ」



🐾🐾🐾



1年後、3月。

家族と共に越して来た街はTempelhofテンペルホフという、以前は飛行場だった広大な広場もある、緑の多いエリアだ。
アパートは決して広くはないが、大通りから奥まった静かな住宅街にあり、学校も近い。幼い2人の子供を育てるには適した環境だった。

3月のベルリンは、陽こそ少しづつ長くなるものの、まだ春には遠い。それでも蕾を膨らませる木々もある。

引っ越してしばらくしてから、仕事帰りに一度だけ、あの公園に行った。今の住まいとはS-Bahnの環状線でちょうど反対側くらいの位置感だ。

ミアもゾフィアも、おせっかいなおばあさんもいない。
一旦公園を離れ、最寄り駅にて一件メッセージを送りしばらく待つと、あの少年…エミルが自転車に乗ってやって来た。

「呼び出してすまなかったな」

日本のお土産として抹茶のお菓子やあられ、それにオーダーを承った『NARUTO』のグッズなどが入った袋を渡す。彼もご多分に漏れず日本のアニメ、特に『NARUTO』が大好きなんだそうだ。

Superズパー! Vielenフィエレン dankeダンケ!」

礼の後すかさずエミルは言った。「ゾフィーなら引っ越したよ」

「引っ越した? どこに」
「知らない。おじさんが知りたいかと思って訊いたんだけど "ちょっと遠くにね" しか言わなかったし、しつこいと思われても嫌だからそれ以上は訊かなかった。で、ミアは今うちで飼ってる。ほら」

彼が背負っていたリュックと思しきものは、リュック型のキャリーだった。丸い窓からミアがこちらを伺っている。

キャリーから取り出されたミアは、すっかり大きくなって貫禄さえ感じられた。抱かせてもらうとミヤァァウと鳴き、前足で俺の胸をふみふみしだす。エミルは目を丸くした。

「おじさんのこと、めちゃくちゃ気に入ってる」
「俺は猫からはモテるんだ」
「連れて帰る?」
「いや、それは出来ない。で、ゾフィーの様子は見てくれてたか?」

エミルは "当然だろ" と言わんばかりに鼻を膨らませた。

1年前、帰国直前に俺はアパートの中庭で彼を捕まえ、事情を話した。ゾフィアは自分から頼るかわからない。だから余計なお世話ではあったが、俺からゾフィアのことを頼む、と彼に依頼したのだ。緊急事態が発生したらすぐに、問題がなければ1年後、俺が正式にベルリンに越してきた時に様子を聞かせてもらえないか、という理由でエミルと連絡先を交換した。
1年間、エミルからの連絡は何もなかった。

「おじさんに言われた通り、ほぼ毎日声かけしたよ。ちょうどうちのママも暇してて、たまにご飯届けたりさ。ゾフィーの具合が悪いときはミアを預かったりしてたんだ」
「そうか」
「で、引っ越し先では猫を飼えなくて、Tierheimティアハイム(ドイツの動物保護施設)に連れて行くのは何だかかわいそうだから、もらってくれないかって言われてさ」
「それはいつの話だ」
「先月だよ」

先月。

「その時はゾフィーの身体の具合はどんな感じだった?」
「んー、まぁ普通じゃない? 悪そうな時よりは良かったと思うよ。緊急じゃないなと思ったから、おじさんがこっちに来てから話せばいいか、と思ったんだ」
「そうか」
「そうそう、最後にゾフィーに言われちゃったよ。"本当は余計なお世話だとずっと思っていたけれど、あの人が頼んでいってくれたことだから、大人しく言う通りにしてたのよ" って。僕の恩を "余計なお世話" って。ひどくない?」

かすかな胸の痛みがよぎった時、ミアが俺の目をじっと見つめた。ほんのりとグレイのかかったブルーの瞳で。ママだった女性と、同じ瞳の色。
その小さな額に自分の額を付けた。

「ゾシャ…」

彼女は、少なくとも、どこか、新しい場所へ移った。ミアを残して。
それが彼女の孤独を救うものなのか。その行く先が希望なのか、絶望なのかはわからないが。


額を離すとミアは鳴き声をあげることなく、俺の顔をじっと見つめた。あどけない子猫の面影はもうない。


ミアをエミルに返しながら礼を言った。

「変なお願いを受け入れてくれてありがとうな。余計なお世話なのはエミルじゃなくて俺の方だ。きみには本当に感謝している。この後はもう俺の連絡先は消してくれていい。俺も消す」
「えぇ~、日本からまた賄賂グッズを買ってきてもらおうと思ったのに」

俺は思わず声をあげて笑った。「そのうち日本に行ってみるといい」

「そだね。行ってみたい。スシ・・は好きじゃないけど」
「寿司以外にも旨いものはたくさんあるよ。もしくは日本で本物の寿司を食べたら、案外涙を流して旨いと思うかもしれないぞ」

エミルは肩を竦めて「じゃあ、僕はもう行くよ」と言って自転車にまたがった。こちらも別れの挨拶をしようとすると、不意に足を止めた。

「そういえばさ、一度訊いちゃったんだ」
「何を」
「ゾフィーに、おじさんに会いたいかって。おじさんからは "俺のことは触れるな" って言われてたけど、何となく」
「…なんて言っていた?」
「"会いたいに決まってるじゃない。でも、会えるわけないよ、もう" って。"会っちゃいけない人だから" って」
「そうか」
「恋人じゃなかったの? って訊いたらさ、"初恋って上手くいかないって、知ってる?" って、逆に訊かれちゃって。そうなんだって思って。僕も恋する時は気をつけようって思った。初恋は上手くいかなくてもいいように、そんなに好きじゃない子に恋するべきだなって」

ふふっ、と口角を上げるとエミルは続けた。

「でもさ、おじさんだって本当はゾフィーに会いたかったでしょ。あと1ヶ月おじさんから連絡来るの早かったら、僕は嘘ついてゾフィーと会えるように仕向けるとことだったんだけど。そしたらさ、上手くいかないっていう初恋のジンクス、壊せたかもしれないじゃん。残念だな」

そうして「じゃあねー」と言って去っていった。
背中を向けた彼のキャリーの窓から、ミアがいつまでもこちらを見つめていた。



手のひらに残る、柔らかで暖かい孤独のぬくもり。

いくつかの甘く狂おしい夜を重ねた、
ひどく長いようで、短い、冬の日。





END

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