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【連載小説】あなたに出逢いたかった #49

「稜央さんがね、言ってたの。パパの中に "狂気" があって、その血が流れてるんだと思ったら、興奮したって。私それ聞いた時、嬉しかった。そして、すごく共感したの」

遼太郎は手を離し、すっかり氷の溶けたハイボールを口にした。梨沙もぬるくなったノンアルカクテルを啜った。

「稜央さんは私のこと理解してくれて、それもすごく嬉しかった。稜央さんは以前、私と似たような気持ちを抱いていたって。稜央さんがパパの子だから…私たち同じだから、そうだったんだなって」

遼太郎は目を細め、微かに唇を噛む。

「…2人が出逢ったことが良かったのかどうかはわからないけどな」
「…ずっと隠しておくつもりだった?」
「話す必要も、知る必要も別にないだろ」
「これからも、稜央さんと会ったり話したりすることはだめなの?」

遼太郎は再びグラスを傾け、静かにテーブルに置くと言った。

「梨沙、今日からもうお前は大人だ。自分の判断で決めろ」

梨沙は驚き目を見開いて遼太郎を見た。

「大学も、日本でもドイツでも、行きたい所に行けば良い。その代わり自分で決めたなら簡単に音を上げるなよ。自己責任だ」
「私が何を言っても、止めないの?」
「お前が学生のうちは "何を" の度合いによるが、基本的にはな」
「もう…助けてもくれないの?」
「急に甘えたこと言うなよ。まぁ…、今までとは違う。大人になるってことはそういうことだ」

窓の向こうに広がる夜に沈む景色を梨沙は見やった。
そうなのだろうか。自分が思い描いていた "大人" とは、そういうものだっただろうか。

「だから稜央との今後は、お前次第だ。そもそも "他人" じゃないからな」
「パパには?」
「えっ?」
「パパのことも、私の自己責任でいいってこと?」
「俺を困らせないように努力してくれているんじゃなかったのか?」
「努力の結果が稜央さんだったのよ」
「…全く、なんだって…こんな…」

拳で膝を叩いた遼太郎は、薄まったハイボールを飲み干した。

梨沙はそんな遼太郎を宥めるように両腕をその身体に回すと、彼の左肩に頬を擦り寄せた。

「私も…秘密を持ってる。パパと私だけの秘密。ううん、私だけの秘密にするかも。世間には嘘をついて生きていくの。私がこの先誰かを恋人にしたとしても…。一番好きな人と結ばれるわけじゃないってパパも言ってたもんね? 心に秘めていればいいんでしょう? パパみたいに」

遼太郎は悲しげに梨沙を見た。本当に、哀れんだ目で。

「梨沙…」
「だって私、パパの子だもの」

梨沙がそう答えると遼太郎は戸惑ったように眉を下げた。

「私も稜央さんが言っていたように、パパの子供で良かったと思う。パパを愛する数奇な運命を授けた神様にも感謝する。でももし今度生まれ変わったら、その時は娘じゃなくて、パパに愛される一人の女性として出逢いたい。絶対に」

遼太郎は目を閉じ、瞼を震わせた。

梨沙、お前はどうしてそこまで…まるで殉教者じゃないか。なんて愚かな…。

それでも強い瞳で真っ直ぐに見上げる梨沙に、しばらく顔を強張らせていた遼太郎は観念したように微笑んだ。

「宿命には逆らえないな。わかったよ…。でも俺はお前のこと、男と女のそれとは比べ物にならない程、深く愛しているんだよ」
「…あの人・・・よりも?」
「梨沙、聞け。今の俺は、俺の過去で出来ている。過去全ての出逢いから、今の俺は成り立っている。誰かが欠けても、今の俺は存在しない。それを妬いたりするのなら、お前に俺を受け入れることは出来ない。それでいいんだな?」

梨沙は唇を結んでいたが、やがて小さく首を横に振った。遼太郎は微笑み、愛おしそうに彼女の両頬を撫でる。

「もちろんお前だけじゃなく、蓮も稜央もそうだ。梨沙は絵画、蓮や稜央は音楽。特に稜央は独学なのに素晴らしいセンスと技術を持っている。俺なんか何にも持ってないのにだぞ?
それでいてみんな、俺に似てどこかズレている。他人から理解されない気質を持っている。それがどれだけ愛しいか…。わかるか?」

梨沙は瞳を潤ませて答えた。

「いいか、お前の身体は俺から出来ている。俺の命が朽ち果てても、お前の命がある限り、お前の中で俺はまだ生き続ける。俺は今のお前とこうして出逢えたことの方が、かけがえがないよ」


梨沙。お前の愚かさは、まさにこの俺から生まれたんだもんな。



帰宅後の深夜、遼太郎の寝室をノックする音。
梨沙か、と思い薄くドアを開けると、夏希だった。彼女は部屋に入ると、ベッドの隅に座った。遼太郎も隣に腰を下ろした。

「梨沙との話、どうだった?」
「あぁ…俺の子で良かった、だってさ」
「例のことも…伝えたのよね?」
「うん…」

夏希は遼太郎の手に自分の手を重ねると言った。

「あなたも」
「…?」
「もう自分を責めないでね」
「夏希…」
「ずっと苦しんで来たでしょう? でももう大丈夫だから。梨沙は色々あったけれど、ここまで育ってくれた。すっかり美人にもなって。今日のあの子を見ていて、本当に感慨深かったわ」

その言葉に遼太郎は何かを言いかけたが、それを遮るように夏希は続けた。

「あなたは決して元凶なんかじゃない。あなたは皆に愛されている。私たち家族はもちろんのこと、隆次さんたち、国内外の仕事仲間、あの京都のお友達だって…ここまで愛されている人、他に知らないわ。今あなたがここにいることが、どれだけ多くの人に影響を与えているか…みんなの生きる羅針盤になっているか…。だからお願い」

夏希は遼太郎の肩に預けて言った。

「あなたもあなた自身を、愛してあげて」

遼太郎は夏希の手を強く握り返した。


***


『稜央さん』

梨沙はカメラをONにして電話をかけてきた。就寝前なのだろう、洗いざらしの髪が返って大人っぽく見えた。
稜央は部屋の中が少々乱れていることを気にし、窓際に寄った。

『お兄さん、と呼ぶのは、さすがに変ですね』
「…聞いたんだ、全て」
『はい』

梨沙の表情は穏やかで、全く深刻そうには見えなかった。

「ショックじゃなかったの?」
『今年の始めには何となく気づいていたから、今となっては確認と補足事項が加わった程度です。むしろ陽菜さんとの会話で、もしかして…と思った時が一番ショックでした』
「そうか…」
『稜央さんが話していた、父の肩の傷のこと。父が言ってました。"何度言ってもあいつは自分のせいにする。俺がやったと何度言っても" って』
「それは…」
『わかります。私たち・・・父の子ですから』

静かに梨沙はそう言った。

「あの時は本当にごめん。いきなり傷の話からすべきじゃなかった」
『いえ、私こそ誤解して嫌な言い方しました。ごめんなさい。でもそれで、どのようにして稜央さんが生まれ、父と出逢い、これまで何があったのか、聞きました。傷はその時に…』
「うん…」
『和解…と言って良いのかわからないですけれど、和解して良かったです。でも』
「…でも?」

梨沙は一呼吸置いて言った。

『稜央さんのことを認知はしていないと言っていました。稜央さんのお母さんが拒んだと』
「…いいんだよ、そんな形式上の家族なんて、どうでも。僕はずっと母子家庭で育ったし、その時はもう成人していたし。彼を "父さん" と呼べるようになっただけでも、僕にとっては奇跡的なことなんだから」
『父はたぶん…まだ稜央さんのお母さんのことを、想っています。父は2つの家族を持つことが出来ないことを、残念に思っているんじゃないかなって』

稜央は梨沙のその言葉に驚いた。

「梨沙ちゃん…。君がそんなことを言っては…君のお母さんが…」
『私の母は、稜央さんの存在を知っていると、父から聞きました』

稜央は思い出した。確かに自分は、梨沙の母…遼太郎の妻と対面したことがある。2度も。
苦々しい記憶に顔をしかめた。

『お正月に田舎に行った時…父は実家に残っていた稜央さんのお母さんとの思い出を全て燃やしてしまいました。あのタイミングで燃やさなければならないほど、強く残っていたんだと思います。けれど心の中まで燃やし尽くしたわけではないと思います。むしろ物が灰になったことで、その心の内は再燃したのだと思います』

稜央はゴクリと唾を飲み込んで言った。「どうしてそんなことが言えるの?」

『父が稜央さんの話をするにあたって、私が稜央さんのお母さんについて触れる事を禁じました。私はお名前も知っていましたが、それも口にしてはいけないと。守ろうとしているのです。絶対に侵されたくない聖域なんです』

稜央は言葉を失くした。

それは自分でもそう思っていた。2人はもう交わることはない。けれどそれが返って結びつきを強くしているように思えた。
昨年末桜子がドイツに訪れたのも、遼太郎に近づこうとした、触れたいと思ったんだろう。もう会わないからこそ。
直接視線を交わし合うことはないのに、心の目ではいつも互いを見守っている。

決して誰も…子供たちでさえ踏み入ることが出来ない、2人だけの聖域…それは例えるなら雪原のような。
2人が交わしてきた、決して多くはない言葉たち…約束、口げんか、あるいは愛の言葉を吸い込んで、静かに降り積もる白い雪。そんな言葉たちが雪の下で静かに眠っている。
永遠の眠りかもしれない。けれど、死んでいるわけではない。
誰の足跡も付けることは出来ない。
ただ2人のためだけにある。

2人はそんな、超越した世界で今も会話をしているのではないか。
その言葉たちは今も降り積もり、雪が隠し、永遠に2人だけのものにしているのかもしれない。

彼がそれを守ろうとしている。
その聖域の唯一の証が…俺だ。

稜央はまるで魂を奪われたかのように硬直した。

『稜央さん? 大丈夫ですか?』
「あっ…う、うん。でもそんな風に昔の女の人のことをいつまでも想っている父親のこと、嫌だと思わないの?」
『思いません』

梨沙はやや表情を強張らせたが、力強く即答した。

「だって梨沙ちゃんは父さんのことを…」
『それも含めて、私は父の全てを愛します』

稜央は再び言葉を失った。

『最初はもちろん、嫌でした…いえ、父が嫌なのではなく、すごく妬きもち妬いちゃって…。稜央さんのお母さんに、です。おかしいでしょう? でも私、母が父を愛するように、自分も父を愛せるはずだと。子供の頃は母親のことも大嫌いだったんです。パパを奪われたくなくて。おかしいでしょう? 母親を何だと思ってるんだって感じですよね。でも今は…母は母、稜央さんのお母さんは稜央さんのお母さん、私は私、と考えるようにしています』
「どうして…そこまで…」

梨沙は少し考えるように小さく眉間に皺を寄せ、しばし黙った。しかしそれについては答えず話題を変えた。

『稜央さん、この前 "僕はたぶん、あの人にはもう会わない" っておっしゃってましたよね』
「うん…父にとっても母にとっても良くない気がして…。僕の自己満足に過ぎないんじゃないかと」
『そんなことないです』

梨沙は力強い調子で続けた。

『父は言いました。私はもちろんのこと、私の弟の蓮も、そして稜央さんも、本当にかけがえのない存在だって。俺に似ないでみんな芸術的な才能があって、それでいて俺にそっくりなところを持っていて…、自分でも信じられないほど愛しいよ、みんな、って。後悔なんかしていない。そう言ったんです』
「父さんが…?」
『稜央さんのことも? と訊いたら、あいつがいなかったら、それこそ俺の半身・・は深い闇に沈んで、残りの半身とのアンバランスさに生きていけなかったかもしれない、と言いました』

ぶるっと、稜央は身体を震わせた。

彼の深く激しい愛は、いつか破滅をもたらす。
俺たちはどうなるんだろう。

『それと父に、稜央さんと会う・会わないは自分の判断で、と言われました。一昨日私、18歳になったんです。もう大人なんだから、自己責任で、と言われました。そして稜央さんは以前私に "本当はもっとたくさん話したい。堂々とその機会が得られたと思っている" と言いましたよね。私も稜央さんと話したいです。父のことを』
「梨沙ちゃん…」
『私たちは最も理解し合えるはずです。いえ、既に…』

梨沙の瞳に光るものが浮かんだように見えた。






#50(最終話)へつづく


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