【シリーズ連載・Guilty】Unbalance #6
「紗都香。なんだ、食欲ないのか?」
箸の進まない私を見て夫が言った。
遼太郎くんと別れた後、夫に外食を提案するメッセージを送ったが、長期海外出張から帰って来て、休日くらい家で食べたいという。どうしてこんな時に、と少し苛立つ。
しかもどういうわけか『鰤の塩麹焼き』をオーダーされ、仕方無しに作った。作ったと言うか、焼いただけ。私は魚料理が苦手だ。食べる方は問題ないが、料理では手やキッチンにうっすらと匂いが残るのが嫌なのだ。むしろ夫も料理はするのだから、自分で作ってくれたら良かったのに。小さな不満が、今日だからこそやけに引っかかり、増幅する。
「ジムで汗流して、腹空かせているのかと思えば」
「逆に張り切りすぎちゃったみたい。ちょっと疲れているかも」
「なんだ、遊び過ぎで調子悪くするとは。まぁ、君らしいがな」
「…」
見透かされたようで焦る。その傍ら、遼太郎くんは今頃何を食べているのかと考える。彼に手料理をごちそうするようなことはないだろうけれど、彼にもし魚料理をせがまれたら作るだろうか。
それでも席は立たず、夫の食事が終わるのを待つ。
やがてバスルームへと向かい、休日なのでお湯を張って、ゆっくり浸かるだろう。
そのタイミングを図って遼太郎くんに電話を掛けた。
けれど4、5、6回コールしても出ない。
一度切ってもう一度掛け直す。結果はやはり同じだった。
彼が一人で飲み、食事をしている姿を想像した。一人…どうして私がそばにいないのだろう。
メッセージを送った。
既読は付かない。さすがにバテたか。でもまだ21時前だ。
私はしばらくスマホを眺めて時間を溶かした。
「何ぼんやりしてるんだ?」
既に風呂から上がった夫に声を掛けられ、驚いて声を挙げた。同時に、メッセージを着信した。
「何でもない…。私も入ってくるわ」
「ジムでシャワー浴びてきたんじゃないのか」
「私もゆっくりバスタブに浸かりたいのよ」
いそいそとリビングを出てメッセージを確認する。
既読はついたが返信がなかった。私は2階の自分の部屋に上り、止めておけばいいのに電話を掛けた。
すぐに繋がる。
けれど。
喧騒。そして、
『あ、電話、誰かか…』
女性の声。
それに被さるように、少し距離のある彼の声。「かして」と。
反射的に切った。
血流が急激に冷やされたかのような感覚が全身を巡る。でもその後すぐに熱い怒りが込み上げる。
しばらくの間スマホを睨みつけていたが、掛け直されることはなかった。
そう、彼は私だけのものじゃない。わかっているつもりだけれど、少なくとも最近の彼は私の夫に妬き、私を独占したいのだと思っていた。
でも今は、他の女性と一緒にいる。少なくとも、彼のスマホを取り上げて勝手に出るような、そんな距離感の女性が。
私たちは昼間、6時間も愛し合っていたというのに。今はもう他の女といる。平気で一緒にいる。
“妹かもしれないじゃない”
どうしようもない思いから逃れようと考えを巡らせるけれど、彼に妹がいるなんて話、聞いたことない。それどころか、家族の話は一切聞いたことがない。そういえば出身地さえも知らない。高校時代の弓道部で、初めて出来た彼女が歳上の大学生だったってことくらいしか。
私を独占したいからと言って、自分が独占されたいわけではない…。
むしろそういう男よ。
滑稽すぎる。
ただ、嫉妬の渦が私の身体を飲み込んでしまう。
*
週明けて木曜日、定例会議。たった4日ぶりの彼。
当たり前だけれど、日曜日の出来事などおくびも出さない。
そしてその日もファシリテートはあの韓国人の若手社員、カンチェヨンだった。
遼太郎くんの言った通り、前回とは見違える程、上手く進行していた。優秀な子なのだと否応にも思わせる。
もしかして日曜の夜、彼からスマホを取り上げて電話に出たのは、彼女なのか? 余計な疑心暗鬼に駆られる。こんな状態ではまずい。
会議終了間際、予定を確かめるためのいつもの "目合せ" をする。私は合図を送るか、ためらった。
その私のためらいを悟ったかのように瞬時目を細めた彼は、情け容赦なく涼しい顔して目を逸らした。NOのサインと受け取ったのだ。
「本日の議事録は既にアップさせていただきましたので後ほどご確認ください。またタスクも既にチケット化し、各担当に振り分けさせていただきましたので、次週までに対応、お願いいたします」
彼はそう言って席を立った。カンチェヨンが頭を下げ、彼に続いて部屋を出て行く。
「ごめんなさい、ちょっと」
エレベーターホールで彼らに追いついた。呼びかけに2人共振り返る。
「野島さん、ちょっとご相談が」
彼は怪訝そうに目を細める。
「九園さま、もし案件に関するご相談でしたらわたくしも…」
カンチェヨンの言葉を遮り「私は野島さんにご相談があって」と告げると、彼女は怯えたような顔をし「申し訳ありません」と頭を下げた。
「何でしょうか?」
強い口調の彼。勢いで呼び止めたものの、この状況でどう切り出せばいいか、どう言い訳をしようか巡らせていると
「野島先輩、私、先に降りています」
とカンチェヨンが階下へのボタンを押した。察しがいい。彼が褒めていた通り頭の良い子だ。彼女を乗せたエレベーターが閉まると、彼は私を無言で睨みつけた。
「あ…何だかごめんなさい。人員の事で…彼女、今後も継続して進行務めるのかしら。担当、変わらないわよね、と思って…」
咄嗟の思い付きで絞り出すと、彼は密やかに、けれど強い語調で詰め寄った。
「それ、今この場で必要な話ですか?」
「だって彼女がいたら…」
「担当変更の際は事前に関係者にメールなり定例会の場なりでお知らせします。大した相談ではないようなので、失礼してよろしいでしょうか?」
「あ…ごめんなさい…」
慇懃無礼に頭を下げ、彼はエレベーターに乗り込んだ。
「待って」
ほんの僅かに振り向く彼。ただその目は冷ややかだ。
"逢いたいの"
そんなもの後でメッセージを送れば済む話なのに、なぜかこの時の私は、とにかく衝動的だった。
向き直った彼は1階へのボタンを押し、私を見ようともしない。ドアは静かに閉まった。
ため息をつく。何をやっているのだ私は。業務中だというのに。顔から火が出そうになった。
同時に、今階下に降りた彼は、あの後輩と行動を共にするのだ、と思うと今度は心の中で炎があがる。日曜日に彼の電話に出た相手が彼女と重なる。
とてつもない焦燥感だった。いけない。今は彼を頭から追い出さなければ…。
自フロアに戻り、カフェスペースでエスプレッソを淹れ、頬を2回はたいて気持ちを立て直した。
*
結局その日は彼への連絡を謹んだ。昼間の行動は流石に大人げなさすぎだったと反省した。
帰宅した私に、既にリビングにいた夫が、やけにのんびりとした声でこう言った。
「いいところのお坊ちゃんなのかな、彼は。親父さん、県知事やっているらしいじゃないか」
咄嗟には何のことか全くわからばかった。
#7へつづく